スターウォーズがシェイクスピアになっちゃった

英語好きで、かつ、映画好きな方には、とてもオススメな本を見つけました。

厳密には、「英語好き」のところは、「英語圏の歴史文化を理解するところが、好き」というべきかもしれません。

英語の映画やドラマを見ても、「何と言っているのだろう」ということに飽き足らず、「どういう文化的な背景で言っているのだろう」のほうまで興味を持ってしまう人向けです。

なんと、映画『スターウォーズ』の内容(セリフやト書き)を、シェイクスピア時代の英語で書いてしまった、という、シャレたお遊び本が登場しました!

すでにエピソード1~7まで刊行済。この調子では、最新作の、エピソード8『最後のジェダイ』も早々に出版されることでしょう。

どんな内容か、というと、「もしも、シェイクスピアが、スターウォーズの脚本を書いたら」というIF本だと思っていただければよいと思います。

スターウォーズ内のセリフを、単純に16世紀の英語で書き顔しただけではなく、舞台効果も、「16世紀の劇場で可能な」仕掛けにすべて直されています。

それゆえ、たとえばデス・スターでの空中戦も、役者が舞台上で「あ、いま、後ろからビームを撃ち込まれたぞ! うわ、俺はやられた! もうダメだ! さらばみんな、あとは任せたぞ!」と、役者がセリフで表現する戦闘シーンに書き換えられているw。

R2D2は、役者が舞台上で、「ああ、私の言葉はみんなにビープ音としてしか聞こえない。もし私の言葉が通じるなら、この孤独な気持ちを伝えられるのに」といちいち独白するキャラ(うざいw)に差し替えられることで、感情表現をしている。

さらには、シェイクスピア時代の演劇のセオリーに忠実に、登場人物たちはいちいち、自分の気持ちや行動をセリフの中に差し込んでくるので、(つまり、ハン・ソロがレイア姫に「I love you」というだけのシーンでも、「俺は今、愛の告白をするべき時なのだ、今いくぞ、さあ、彼女の後ろの壁に手を当てて!」と、いちいち自己説明するw)セリフのテキスト量は膨大になっています。これが、シェイクスピアの見事なパロディになっているだけでなく、「シェイクスピア時代の演劇のありかた」の勉強にもなる、という仕掛け。おしゃれです。

少し、実例をあげてみましょう。僕はスターウォーズの中では、『帝国の逆襲』が一番好きなので、それを例にとりますが、

映画の中で、ダースベイダーが、失敗した部下の喉をフォースで絞め殺すシーン。映画の中ではシンプルに、

You have failed me for the last time!
(俺を失望させるのはこれで最後だな)

と言って、フォースを使い、部下が「ア・・・ア・・・アグググ」と苦しんで倒れるだけの場面なのですが、この「シェイクスピア版」では、こうなります。

Thou hast fail’d me once again,
But nevermore shalt thou have chance to fail.
I bring the Force to bear upon thy throat.
That thou, in thy last breath, shalt know my pow’r.

長いよw!

英語に興味のある方には全員にオススメしたい、めちゃくちゃ面白い一冊:安西徹雄さんの『英語の発想』

このブログのあちこちでも言っている通り、やればやるほど、英語というものは難しい。特に、日本語⇔英語の翻訳をめぐる世界は本当に奥深いですね。

ですが、日本語⇔英語の翻訳に興味を持つ方には、ぜひ、一度は読んでほしいほど、「目からウロコ」「始終、納得づく」の名著に出会いましたので、本日はこれをオススメしたいと思います。

何がすごいのか、といえば、出てくる検証・話題のひとつひとつが、「言われてみれば納得!」な論点ばかり。学校英語以降、ウン十年にわたって「もやもや」していたいくつかの問題が、本書を読んだだけで一晩で解決したのです!私の場合、ですが、これはぜひ、人にも、オススメしたい。

どんな話題について触れられているかというと、

・「もの」とみるか「こと」とみるか
・行動論理と情況論理
・客観話法か共感話法か
・受動態と受身

こうした目次立ての中で、「英語は名詞中心だが、日本語は動詞中心で作られている」「英語の時制は、あくまでも現在を基準にそれぞれの時間関係を厳密にしていくか、日本語の時制は対象への共感によってコロコロ基準を変えていく」「何かが原因となって結果が起こることを強調する英語に対して、日本語では、情況が出来事が自然に発生した、という論理を採用したがる」などといった興味深い指摘が続々出てくる。とても面白い本です!

さっそく、私にとって役に立った論点をひとつ挙げましょう。日本語を英訳するとき、「無生物主語+他動詞+目的語(人間)」という構文を多用するように心がけるだけで、いっきに、書く英文が英語らしくひきしまる、というもの。たとえをあげれば、「彼は禿げだったので、人前に出るに引け目を感じていた」というのではなく、「禿げ頭が、彼に人前に出ることへの引け目を感じさせていた」と発想すると、英語らしい文が作れる、というのです(この例の場合は、baldness(禿げていること)を主語に英文を作るわけですね)。

実際、これを心掛けるようになっただけで、私の英文がいっきに、「それらしい」ものにレベルアップしました。これはもう、名著として、ぜひ、オススメしたい次第です!

おもいきってラテン語にまで手を伸ばしてみると、ロマンス語の神様が一瞬、降りてくる、という話

言語マニアとしての、私の願いを、いつかかなえてほしい。ロマンスの神様に、ではなく、ロマンス諸語の神様に、です。ロマンス諸語はやはり格好がよいし、先入見があるかもしれませんが、おしゃれに感じる。使いこなしたい!

このブログで何度か語ってきた通り、生涯にひとつでも多くの言語をマスターしてから死にたい、という夢を持つ私。いろいろ手を出してきましたが、ここ一年を見る限り、ロマンス諸語と、かなり相性が、良いみたい。私が考えている「ロマンス諸語」というのは、スペイン語・ポルトガル語・フランス語・イタリア語のことです(ほかにルーマニア語等も含まれまずが、さすがにそこまでは手が伸ばせない・・・)。

出典:基本から学ぶラテン語(ナツメ社)

歴史的な展開の図示は、上掲の感じ(オック語ってなんだろう、、、??)。難しく考えず、「ラテン語から分かれた言葉」と言ってしまえばわかりやすい。ラテン語とは、ほぼほぼ、「古代ローマ帝国の言葉」と考えていいわけなので、古代ローマ帝国が崩壊した後の子孫たちが、それぞれの国や地域で継承してきた言葉、ということになります。ただし、この話、もともとラテン語というキレイな言語があって、そこからいくつかの言語が分かれた、というわけではなく、もともと古代ローマ帝国の中でも地域によってぜんぜんちがう「ラテン語」を話していたという事情もあるので、必ずしもすっきりと整理できる話でもないのですが。

それは、ともかく。

ロマンス諸語を横断的に勉強していると、どうしても、その前段階に位置する、ラテン語にも興味が出てきます。というわけで、以下の一冊を手に取りました。ラテン語の語学テキストなどというものが、あっけなく、駅前の書店で手に入ってしまう現代日本の出版事情って、やっぱり、いまだに、凄いと思います、、!

本書を読んでみると、なにせ、著者自身が、「ラテン語はとびきり難しい言語で、修行八年と言われておる」的な意味のことを最初のほうに書いている。これを読んで、さっそく、「ラテン語をマスターしたい」という野望は、私としては、諦めました。あくまで、今、勉強中の、ロマンス諸語(フランス語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語)の補完の為の読書として、本書一冊を読み通す。

内容すべてを理解しようとはせず、ラテン語の概要を知るために一読するには、ちょうどよいテキストでした。まず、「こんなに暗記することが多いのか!」という驚愕が来る。なにせ、ラテン語というもの、動詞だけでなく、形容詞や、果ては名詞にまで、複雑な活用形があるのですから! 過去形と分詞と三人称単数くらいしか活用変化のない英語の世界が懐かしく感じる。。。

しかし、ラテン語の概要を掴むことで、他のロマンス諸語をやっている時に感じた、いろんな「ナゾ」のルーツが見えてきて、実に面白い!

接続法のナゾとか

スペイン語でいう「点過去と線過去」の区分のナゾとか

何より、ロマンス諸語にあるたくさんの単語の語源が、ラテン語の中にどんどん見つかるのは、スリリングなこと、この上ない経験でした。

西欧圏の人たちが、日本語と韓国語と中国語を平行で勉強しているあいまに、ふと、古代中国語の本を読むと、こんな感じを味わうのかもしれません。「ああ、こういうふうに、ぜんぶつながっていたのか!」と。

それにしても、気になる点は、本書の解説によると、「ラテン語は単語の活用が複雑な分、語順はいい加減で、英語の五文型(SVO云々とか)みたいに、きれいに整理ができない」ということ。語順がルーズである分、古代ローマの知識人は、凝りに凝った複雑な文体でドキュメントを描いていた、とか。それが本当だとしたら、ラテン語をマスターして、かつラテン語の本が読めるレベルに到達しようとすると、これは大変な道のりになりそうですね。

さすがに、そこには欲張らず、

勉強先を、現代のロマンス諸語に、戻すとします。

保坂道雄さんの『文法化する英語』を読んで「自己組織化する言語」というアイデアにおおいに共感した話

開拓社から出ている「言語・文化選書」シリーズは良書揃いではありますが、本書、「文法化する英語」は、私にとってはとりわけ強烈な一撃でした。

「通時言語学」というのでしょうか、内容としては、現代英語にある「冠詞」や「法助動詞」「受動態」「進行形」「完了形」「不定詞」「存在構文(there文)」「形式主語it構文」「関係代名詞」「接続詞」「再帰代名詞」「助動詞DO」「所有格」といった十三のテーマについて、「どうして今日のような形になったのか」を、古英語から中英語、近世英語にいたる歴史的変化から説明してくれる、というもの。いわゆる学校英文法の説明だけではいまいち腑に落ちなかった英語のいろいろなナゾが、歴史的な変化の経緯を知ると、とてもよくわかる!

それだけでも本書は、読んで「ためになる」本なのですが、私にとって強烈だったのは、著者が示す、以下のような言語観。

・(英語であれ日本語であれ、アイヌ語であれゲール語であれ、)それぞれの言語は、生物の適応進化のような、「生き残るための必然性」としての変化を繰り返して、今日までやってきた。

・各言語の歴史は、いわゆる自己組織化の歴史として捉えられる。カオスの海の中からしだいに秩序が形成されるように、各言語はそれぞれの「文法」をシステム化して生き延びてきたのである。

つまり、ハリネズミの針や、シマウマの縞模様のように、それぞれの言語がどうして今日のような秩序だった体系を得たのかは、生き残るための合理的な選択の歴史から説明できる、と見る考え方ですね。

この見方を追究するならば、それぞれの言語の持つ文法なるものは、だれか特定の天才が考えたものではなく、ちょうど雪の結晶のように、自然に生成されたシステムだ、ということになる。雪の結晶の類推で解く言語史。この見方が正しいのかどうかは私ごとき浅学の徒にはとうてい判定できませんが、ロマンあふれる言語観であることは間違いなく、人生が変わるほどの、鮮やかな衝撃を受けた、読書体験となったのでした。

安武知子さんの『コミュニケーションの英語学』を読んで「談話要因」という概念に出会った話

これは!と思えるような外国語研究書に、ひさびさに出会えました。安武知子さんの『コミュニケーションの英語学―話し手と聞き手の談話の世界 (開拓社言語・文化選書)』。開拓社から出ている「言語・文化選書」は好著揃いですが、本書も、実に、よいものでした。

単なる英語の勉強本にはならず、それぞれの著者ならではの「英語の研究方法にはこんなものがある!」の主張の場ともなっているシリーズなので、英語の歴史を紐解くところからアプローチする人もいれば、日本語との比較でアプローチする人もあり、中には「こんなアプローチ方法があったか!」と読者を感心させるところから始める人もあり。

で、この書の著者、安武知子さんは、どちらかといえば語用論的な研究をフィールドとしている人のよう。語用論、というのは、正直、これまでの私もあんまり馴染みがないし、あまり良書に出会った記憶もないのですが、この『コミュニケーションの英語学』は、とても、よかった。

本書のキモとなる「談話要因」という概念については、序文において、かなり明快に説明されています。要約しますと、

・ことばによるコミュニケーションには、客観的な情報だけではなく、話し手自身の主観的な心情や意図や態度も背景に込められている。

・しかもそれは、話し手が意識的に、ことばに自分の主観を含んでいる場合(英語で言えば、mayやmustのような助動詞を挟んだり、仮定法で表現したり)だけでなく、話し手も無意識のうちに自分の主観をニュアンスに込めてしまう場合もある。だから、単純に文法を見ているだけでは、本当の意味での外国語の意味の理解は完成しない。

・このような「談話要因」を研究するためには、それぞれの言語を話している人々の、文化や生活慣習、歴史的な経緯といった領域まで研究しなければならない。

・そうすることによって、我々は、単なる文法や語彙の比較よりもさらに踏み込んだ、それぞれの言語の深いレベルでの「世界の感じ方の違い」を分析できるのだ

↑私なりの要約なので、それこそ、著者の安武さんの込めていた「ニュアンス」を殺してしまっているかもしれませんが、、、。しかし、問題意識は、とてもよくわかる!同じ言葉でも、話す人や、シチュエーションによって、「実は怒っているのかな?」とか「実は皮肉を言っているのかな」とか「保育園に行きたくないと言っているけど本当は行きたいのだろうな(これは私の娘の場合、、、)」とかを読まなくてはいけないのは、日常のコミュニケーションで起こっていること。

その「言外の意味の込め方」にこそ、各国言語の特徴の違いが出てくるはずだし、

そこまで踏み込んだ研究こそ、真の外国語理解だ、という設定ならば、私には、とても、共感できます。

本書は、上記の考え方に従って、「自動詞と他動詞の問題」や「冠詞の使い分け問題」、「someとanyの使い分け問題」など、文法書の解説だけではどうにも釈然としない英語の微細な表現の問題に切り込んでいきます。専門書なのでかなりハイレベルな議論が行われる本ですが、ともかく通読すると、確かに、英語というものへの理解がグンと深まることは確か。ぜひぜひ、一読をおすすめしたい本です!

杉本つとむ氏の著書『長崎通詞ものがたり』の読後感に胸が熱くなった話

「通詞」と書いて、「つうじ」と読みます。

江戸時代のことばで、今でいう「通訳者」「翻訳者」のこと。江戸時代といえば、鎖国のおかげで、日本と交易が許されていたのは、長崎に寄港する清国とオランダのみ。ゆえに、この時代の「通訳者」「翻訳者」の花形といえば、中国語とオランダ語となります。

直観的には、この時代の「通訳者」「翻訳者」などといったら、たいへんなエリートで、幕府に手厚く保護されながら、決められた通訳業・翻訳業を、のんびりやっていた人たちなのだろうな。。。と、勝手なイメージを持っていたのですが。

この本を読んで、認識を改めました。「江戸幕府の役人の通訳なんて、レベルも低いだろうし、たいしたことないだろう」というのは、完全に、ステレオタイプでした。

むろん、本書は歴史書ですから、残念ながら実際にも、たいした語学力もないのに、賄賂や密貿易に明け暮れる、やくざまがいの悪党通詞の記録も紹介されてはいるのですが、

全体的には、感動的な話が多い。この時代に長崎で通訳翻訳をやっていた人たちというのは、純粋に「外国の知識を輸入することが、よのため、ひとのため」と考えて、ものすごい勉強量をこなしていることが読み取れる。特に、オランダ語をやる、ということは、オランダ人が持ち込んでくる西欧文明の根底にまで迫ることだと理解していた人々は、プラトンやアリストテレスもどうやら読みこなし、数学化学天文学、ありとあらゆる「西欧の科学」を勉強していた。行ったこともないはずの西欧のことを、よく知っていた。それらすべて、「勉強をすれば、ひとのためになるから」という無私の精神からきているガリ勉ぶりであることが、いかにも江戸時代らしい気概で、なんとも、すがすがしい。

そりゃそうかもしれませんね。この時代、たとえば、オランダ語の医学書を一冊翻訳することに成功すれば、それだけで日本の医学技術がぐんとレベルアップし、昨年までは助けられなかったような難病も治せるようになる。翻訳をがんばればがんばるほど、日本の産業や衛生医学のレベルが上がっていく。そういう意味で、通訳や翻訳に対する社会の期待は、現代と比べ物にならないほど高く、かつ、やっている人も、歴史に参加しているという熱さをもってやっていた。

もちろん、日本という国がまだ若かったから、可能だった話。今の時代、外国の何かの本を一冊翻訳に成功しただけで、国家レベルでの偉業として絶賛される、なんてことは、ない。そういう意味では本書は、日本における「外国語習得の歴史」の、もっとも幸福な時代を描いている本、といえるのかもしれませんが、

いっぽうで、本書を読むと、これだけネットやテレビやらのおかげで外国語が身近になっている僕らが、「どうも日本人は英語が苦手で・・・」などと言っている場合ではないな、がんばらなければな、と襟を正してしまいます。僕らはお侍の時代に生きてはいませんが、どうせ外国語をやるなら、この時代の「通訳侍」たちの熱い志を何らかの意味で受け継ぐ気概で、やりたいな、と、僕のやる気もガン上がりした読書経験となったのでした。

山岡洋一氏の著書『翻訳とは何か—職業としての翻訳』の読後感がとてもよかった話

いい本を、読みました。

山岡洋一氏の『翻訳とは何か―職業としての翻訳』です。

副題の「職業としての翻訳」は、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーの『職業としての学問』を意識しているものと思われます。ヴェーバーの本も、読者に「世の中は甘くないんだぞ」とガツンと言ってくれる有意義な本であり、若いうちに読んでおくべき名著と思っておりますが、こちらの山岡洋一氏の本書も、いい意味で読者の甘えを断ち切ってくる迫力に満ちた、現代ではなおさら希少な名著といえるのではないでしょうか。

・翻訳というのは甘いものではない。

・単に語学ができるだけではダメで、日本語力がないといけない

・それでいて、収入は期待できない。これで生涯食っていけている人など少数の、向かいの少ない世界

・だがそもそも、翻訳というのは、「外国語で書かれたものをより多くの人にも読んでもらいたい」という教育的な精神で成り立つものであり、お金ではない文化的な意義を理解できる人間が試みるべき職業である。

うわあ、厳しい、、、w。おおよそこのような議論が累々と展開されている本と思っていただければよいかと。ひとことで言えば、昨今の「翻訳スクール」などに毎年何万人も集まってくる、「翻訳なら私にもできるかと思って、応募してみました、ヨロシクオネガイシマス!」な軽いノリの人々に対して、「翻訳を嘗めてんじゃねえよ」とパンチを食らわせてくれる本、というところでしょうか。

「翻訳というのは、もともとは、もっと崇高な目的意識があって、出てきた職業のはずでは?」「そもそも、世界には、『英語の本が読みたければ英語を勉強しなさい』と冷たく突き放すだけの国もたくさんあるのに、日本などうしてこんなにも親切に、あらゆるものを日本語に訳して出版してくれるのか、ないし、それが当たり前の文化になったのか?」そう問いを投げかける著者は、議論を明治維新にまで遡らせます。結論としては、ここで、「外国人の指揮官を雇うことで様式化を行なった幕府軍」が、「外国の文献を翻訳して自己流に解釈し、和洋合体の軍隊を作った薩長軍」に敗れたことが、決定的に重要だったということ。「いかに西欧のテクノロジーが優れていても、それをそのまま移植してもダメで、日本流にアレンジする必要がある」、この精神が翻訳文化であり、それは、外国語の価値を認め勉強しつつも、日本語の価値はそれはそれで大事にする、という、歴史的な選択であった。この明治維新の時の経験がなければ、日本はどこかのタイミングで英語ないしフランス語を公用語にし、日本語を衰退させてしまうという道を選んでいてしまっていたかもしれない!

・・・という歴史観は、もちろん、本書の著者の個人的な見解であり、正しいか正しくないかを問いだせば、きりがない話。ですが、「日本人はどうして英語が苦手なままなのか」というありがちなら問いに、「それは明治維新の時の選択として、『あくまで日本語を公用語として守り、ただし、翻訳を盛んにすることで外国の文化を吸収することは積極的に奨励しよう、という方針をとった結果、そこに文句を垂れて仕組みを変えたいというのであれば明治維新にまで遡る議論になるぞ」という明晰な答えを用意している本であり、とても興味深いものでした。

なによりも、私個人としては、愛読していた司馬遼太郎の『花神』が本書で取り上げられ、「実は翻訳者というものをヒーローとして扱った画期的な歴史小説である」と絶賛されているのが、嬉しかった。司馬遼太郎の歴史小説『花神』を翻訳を巡る物語として読む方法、、、なるほど!