『坂の上の雲』の書き出し分析続き:「松山出身の三人の主人公のひとり(秋山好古)」はどう英訳紹介されたか?

ついに英語版( Clouds Above The Hill ) が出版された、司馬遼太郎の人気小説、『坂の上の雲』。

名場面や名セリフがどのように英語訳されたかを追うこの企画ですが、前回に続き、書き出しに続く「この物語の三人の主人公」の紹介部分の英訳分析を、続けましょう。

『坂の上の雲』未読の方のために解説しておきますと、

司馬遼太郎が第一章で、「この物語には三人の主人公がいる」と述べているところから始まるのが、この大河小説。三人の主人公というのは、秋山好古と、その弟の秋山真之と、そして、正岡子規のことです。史実でも日露戦争で大活躍した、いわゆる「秋山兄弟」と、その同郷(現在の愛媛県松山市)の友人であった俳人正岡子規の目を通して、「明治」という時代を描くのが、本作の構成の主柱になっています。

これは巧い構成と思います。秋山兄弟を主人公に置けば、兄の秋山好古のほうはのちの日本陸軍のヒーロー、秋山真之はのちの日本海軍のヒーローとして大成するので、日露戦争の描写をする際(本作のクライマックス!)では、陸軍パートの物語は好古の視点から、海軍パートの物語は真之の視点から、それぞれ活写できるわけです。「それでは、もう一人の主人公、正岡子規の視点は、何を受け持っているのか?」というのが、この小説を「ただの戦争小説」と読むか「もっと深い日本文化論」と読むかの違いにかかわる重要なポイントとなるのですが、それは今日はおいておいて、、、。

のちに陸軍に入り、騎兵を率いて大活躍する、秋山好古の初登場シーンを追ってみましょう。

日本語の原版では、こうなっています。

「信さん」
といわれた秋山信三郎好古は、この町のお徒士(おかち)の子に生まれた。 お徒士は足軽より一階級上だが、上士とはいえない。

英訳では、以下の通り。

Another of our heroes is Akiyama Shinzaburo Yoshifuru, known familiar as “Shin”, who was born into a family of okachi samurai in this town. The okachi were one rank higher than common soldiers but were by no means high-status samurai.
(別の主人公、秋山信三郎好古、「信さん」という親称の人物は、この町のお徒士の家庭に生まれた。お徒士というのは一般兵卒よりは上の位だが、高い階級の侍とはいえない)

ちょっとくどい説明調になっていますが、けっこうきれいな英語に訳してくれていますね! 「お徒士」という階級がどれほどのものかも、あっさりと、うまく英訳してくれています。その際に、「足軽」を「common sodiers」と訳したのは、大胆ながら見事な判断と思います。「一般兵卒よりは一階級上」といえば、確かに、お徒士の説明としては、あっています。もっとも、「お徒士」とか「足軽」とかいった用語は、現代の日本人にもピンと来ない表現になっちゃったかもしれません。ではなせ、本ブログの著者である私が江戸時代の階級や役職名にこんなに詳しいのかというと、今はしがない東京都のサラリーマンをやっている私ですが、先祖がいちおう、士族だったからです。「この頃は藩の重役に上り詰めた」「けれどもこの時代にはお徒士クラスと婚姻するほど落ちぶれていた」うんぬんの話を祖母からさんざん聞かされて育っているから、どうにも、士族階級内の「えらい」「えらくない」の話題には敏感です。私程度のレベルの武家の子孫では、「お徒士」くらいがちょうど親近感の湧くレベルで(江戸の侍世界のサラリーマンくらい?)、それが私が『坂の上の雲』大好きな理由かもしれませんが。

好古の紹介の後、物語は以下のように続きます。

信さんが十歳になった年の春、藩も秋山家もひっくりかえってしまうという事態がおこった。明治維新である。

In the spring of the year when Shin turned ten, an event occurred that was to have drastic effects on both the Matsuyama domain and the Akiyama family. The Meiji Restoration.

「ひっくり返ってしまう事態」という文学表現を、[to have drastic effects]と訳したのは、実に巧い、と思った個所です。

【キーワード】
「藩」はdomain、「明治維新」はThe Meiji Restorationです!
日本史の話を英語圏の人とする際には参考にしてください

おそらく他の藩でも、こういうことはあったのでしょうが、
松山藩は幕府側についていたという経緯から、明治維新の際、官軍(薩長土肥)に占領され、苦渋をなめることになります。松山には土佐藩の軍隊がやってきて、いろいろみじめな思いもしたようで、そのことが、のちに日本陸軍の要として大活躍する秋山好古の精神形成にも影響したのではないか、とするのが、司馬遼太郎の筆。故郷の松山の街に、「土佐藩あずかり」というはり紙が出された光景のことを指して、

信さんは十歳の子供ながら、この光景が終生忘れられぬものになった。
「あれを思うと、こんにちでも腹が立つ」
と、かれは後年、フランスから故郷に出した手紙のなかで洩らしている。

Shin had been a boy of ten, but it was something he never forgot all his life. “My blood boils even now when I think of it,” he later wrote in a letter to someone in his hometown from his posting in France.

とあります。ここから、若き秋山好古の、猛勉強と立身出世の物語が始まるわけですが、秋山兄弟にせよ正岡子規にせよ、コンプレックスがあまりねちねちしておらず、どこか(松山の気候のように)からりと処理されていくのが、本小説の魅力だな、と思います。

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『坂の上の雲』の書き出し分析続き:「松山出身の三人の主人公のひとり(正岡子規)」はどう英訳紹介されたか?

ついに英語版( Clouds Above The Hill ) が出版された、司馬遼太郎の人気小説、『坂の上の雲』。

名場面や名セリフがどのように英語訳されたかを追うこの企画ですが、前回の「書き出し」の分析の、続きをやってみましょう。

今回、見てみたいところは、日本語版でいう以下の部分。

この物語の主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれないが、ともかくわれわれは三人の人物のあとを追わねばならない

そのうちのひとりは、俳人になった。俳句、短歌といった日本のふるい短詩型に新風を入れてその中興の祖になった正岡子規である

子規は明治二十八年、この故郷の町に帰り、
ー春や昔 十五万石の 城下かな
という句をつくった。

ここにおいて、
・『坂の上の雲』というこの大河小説には、主人公が三人いること
・その三人が伊予(現在の愛媛県)の松山出身であること
・よってこの物語は幕末明治初期の松山を背景に、まず三人の主人公の生い立ちを描写するところから始めるぞ

・・・ということが無理なく説明されています。そればかりでなく、三人の主人公の一人、正岡子規の後年の俳句をさっそく一遍、引用することで、松山の情景まで読者に強く印象付ける、という構成になっております。

英訳担当者達は、ここをどのように英語にしたか、見てみましょう。まず、最初の一文。

The heroes of this story are three Matsuyama men whose paths we must trace: (Though perhaps the small country of Japan in that period is the principal character of our story).
(松山人である三人のこの物語のヒーロー達の生い立ちを、私たちは追ってみなければならない(もっとも、この物語の新の主人公はこの時代の小さな日本かもしれないけれども))

いきなり、とても勉強になる英訳ぶりです。日本語では、「この物語の主人公は日本そのものかもしれないけれど、実際には三人の人物を追います」という情報構造になっているのが、英語版では「我々は三人の主人公(heroes)を追っていく(trace)、もっとも、この物語の本当の主人公(the principal character)は日本そのものなのですが」と、逆になっている。日本語と英語とは、文型の違いだけでなく、主要な情報とサブ情報の順序が大きく違うので(一般に、日本語は文の最後が一番大事で、英語は文の最初が一番大事)、プロの翻訳を見るとこのように、「単に日本語を英語に置き換えただけでなく、情報の出てくる順序を入れ替えた」パターンをよくみかけます。そして、これこそが、本当に伝わりやすい翻訳文を作るコツ、ともいえるのでしょうが、素人にはなかなか真似できないところであるのも確か。

次の文は以下のようになっています。

One of them became the haiku poet Masaoka Shiki, who breathed new life into haiku and tanka, those short poetic forms traditional to Japan.
(そのうちの一人は、俳人になった正岡子規、俳句や短歌といった日本の伝統的な詩に新しい息吹を吹き込んだ人物である)

俳人を「haiku poet」、俳句と短歌を「haiku and tanka」と特に説明もなく言い切っているのは、個人的にはちょっと驚き。

さて、翻訳の問題として面白いのは、次です。子規の俳句も英訳されているのですが、

In 1895, returning to his hometown of Matsuyama, Shiki composed a haiku.
– Spring of old
– this castle town once boasted
– one hundred fifty thousand koku of rice
(1895年、彼の故郷の松山に帰った時、子規はこんな俳句を作った。
古き春 この城下町は誇っていたものだ 十五万石の繁栄を)

ぜんぜん違ってしまいましたね。もともと俳句を英訳するなど無茶な話だとわかっているのですが、このニュアンスの変わりぶりは、やはり、日本人としては戸惑ってしまいます。しかし考えれば考えるほど、「感情共感型」の日本語を、「情報説明型」の英語に乗せ換えるとなると、こういう説明調になってしまうのは仕方ないのかもしれません。

【キーワード】
haiku poet=「俳人」。英語圏でも俳句はhaikuで、そのまま通じます!
compose=詩や俳句を「創る」は、「コンポーズ」を使います!

いささか余談ながら、私は十代という若い時期に初めて『坂の上の雲』を読み、その時は、「日露戦争の物語なのだから、秋山好古と秋山真之が主人公なのはわかるが、なぜ、三人目の主人公として、正岡子規がからんでくるのだろう? 軍人ではないし、日露戦争の始まる前に亡くなってしまうし。正岡子規の話は余計なのではないか」と思ってしまったものです。

今の年齢になると、むしろ、「正岡子規が主人公の一人であることをどう見るか」こそが、『坂の上の雲』解釈の最大のキーである、と思うほど、重要視するようになりました。その話も、本ブログの中で、おいおい、検証していくことにいたしましょう。

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『坂の上の雲』の有名な書き出し「まことに小さな国が開花期を迎えようとしている」はどう英訳されたか?

ついに英語版( Clouds Above The Hill ) が出版された、司馬遼太郎の人気小説、『坂の上の雲』。

名場面や名セリフがどのように英語訳されたかを追うこの企画ですが、まずは、気になるところの、物語の「書き出し」を追ってみましょう。

NHKドラマ版でも強調されていた、書き出しの名文句は、こういうものです。

まことに小さな国が、開花期をむかえようとしている

その列島のなかの一つの島が四国であり、四国は、讃岐、阿波、土佐、伊予にわかれている

私個人も、強く引き寄せられた書き出しです。語呂も名調子である上に、読者の頭の中にまず日本列島を思い浮かべさせ、次に四国を思い浮かべさせ、という順番で、第一章の舞台である松山にフォーカスしていくあたり、実に巧い導入と思います。

さて、壮大な物語の幕開けを予感させる、この書き出し文。英訳者たちはどう処理したのでしょうか?

A small island nation was about to enter a period of great cultural change.
(ある小さな島国が、まさに大きな変革の時期に入ろうとしていた)

んー?!なんだか、英語にされると、ものすごく、普通に感じられて、個人的には少しがっかり(!)。

ロスト・イン・トランスレーションというやつなのでしょう。翻訳をすると、「意味」は伝わっても、原語が持っていたニュアンスがごっそり消えて、「普通な文」になってしまう。
これと逆のことが、きっと、英語の文学作品が日本語に翻訳される時にも大量に起こっているのだろう、ということを思うと、いやはや、文学の翻訳って、いかに難しいことかと、思い知らされます。

続く、四国の描写部分は、こうです。

One of the islands in this archipelago was Shikoku, and it was divided into the provinces of Sanuki, Awa, Tosa, and Iyo.
(この列島のうちの一つが四国であり、それは讃岐、阿波、土佐、そして伊予という四つの県にわかれていた)

なんてことでしょう。まるでカエルの解剖報告のように、無味乾燥な「説明文」になっちゃった。でも、確かに、「四国」という地名も、「讃岐 阿波 土佐 伊予」といった地名も知らない英語圏の読者に対しては、こういう文章にせざるを得ない、という事情もわかります。

とはいえ、ここで「列島」という意味を示すのに、archipelagoというちょっと古風な単語をあてて風格を出しているところに、英訳者たちの苦肉の意気込みを感じることもできます。

【キーワード】
archipelago=「アーキペラゴー」と読みます。もともとはギリシャの島々を示す言葉。転じて現代では、「群島」とか、「列島」とか、「多島海」といった意味。

考えてみれば、司馬遼太郎の小説というのは、本作品にかぎらず、「日本史」「日本地理」についての知識がある程度、頭に入っている日本人読者を想定して書いてあるもの。英語圏の人に読ませる小説に翻訳するのはかなり困難なことで、説明調が紛れてくるのは仕方のないことと言えます。

それらの難題を、英訳者たちがどのようにひとつひとつ乗り越えて、大河小説全体の翻訳を完成させたのか、興味がますます、湧いてきます。
この調子で読み進めていきましょう!

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本気で空海先生に倣うなら人生の目標は「地上の全言語を習得」たるべし、と思う話

本当に、この話題がしつこくて申し訳ございませんが、弘法大師こと空海先生が大好きです。仏教の偉人というよりも、語学の達人としての生き様に、深い畏敬の念を抱いております。

そういう次第で、今日も世界の様々な言語の勉強にいそしんでおりますが、

かつて本ブログの別の記事にも書いた通り、空海先生の文章の尋常ではない思考の幅の深みは、「やまとことば」「漢文」「サンスクリット」の三言語の精神を体得していたからではないでしょうか。

多種多様な言語に深く習熟すると、そもそもの母国語での思考が結果として大海のように広く深く豊かになる。そんな好例を、ここに見るとするならば、

やはり私は、外国語をがんばらねば。私は仏教僧ではないし、これからどんなにがんばっても弘法大師様のようなスーパーな存在に覚醒できるはずもないが、せめて「マルチリンガル」な精神だけでも学びたいと、あらためて、思うのでした。

そしてさらに言うならば、今の時代、情報テクノロジーのおかげでたくさんの言語を並行で習うこと自体はできるのだから、目標は、「生涯のうちに、1ヶ国語でも、多く!」と置いておきたい。

「では、結局、何カ国語くらいが理想なの?」と問われれば

理想でいうなら、夢は高く、「地上の全言語」であるべきでしょう!

そんなの無理だ!時間的にも、生物学的にも、そもそもたぶん脳科学的にも不可能だ!だいいち、「全言語」とはいったいいくつなのかさえ不明だというのに!

と、言われることは百も承知。でも、「真に人間世界というものを知り尽くしたいなら、地上のいかなる片隅の少数民族のココロまでもを理解したいなら、理想は全言語!」と豪語すべきでしょう。

それに、ひょっとしたら、

自分が生きているうちに、外国語学習の、ものすごく効率のいいシステムが開発されたり、遺伝子科学で寿命が爆発的に伸びたり、あるいはサイボーグ技術で脳にコンピュータを埋め込んだりで、「やろうと思えば全言語を頭に入れられる」日が、こないとも限らない。子供っぽい夢想とは百も承知ながら。

だとすると、やはり、諦めちゃいかん。人生の目標は、あくまで「全言語に触れる!」。

それに、よく言うでしょう、「最初から現実的な目標を置くのではなく、無茶な目標を掲げたほうが、結果としては高いところまでいける」云々。だとすれば、あくまで目標は全言語で、死ぬ間際に「さすがに全言語は無理だったが、◯ヶ国語までいけたなら、まあまあじゃったな」と回顧できれば、それでいいとも思う。

というわけで、

よし、今日も頑張って、外国語の勉強、開始!

※尚、空海先生関連の別の過去記事はこちら

もしAIが発達しきって人間の仕事が全部奪われたとしても空海先生に倣える生き方ができるなら悪くない話

本当に、この話題がしつこくて申し訳ございませんが、弘法大師こと空海先生が大好きです。仏教の偉人というよりも、語学の達人としての生き様に、深い畏敬の念を抱いております。

そういう次第で、今日も世界の様々な言語の勉強にいそしんでおりますが、

ふと、ニュースサイトのコラムで、「AIの進化は人類の未来にディストピアをもたらすのではないか」という文章を見つけました。主張としては、以下のようなものです。

・AIが発達すると、人間の仕事はほとんどすべて奪われる

・もっとも、その世界では、生活必需品はほとんど無料で、手に入ってしまう。よって、失業したからといって苦しいことは特にない。何をしても、何もしなくても、衣食住はおろかレジャーの選択肢にも困らない、究極のベーシックインカム状態となる

・開発途上国と先進国の差異も標準化されるので、格差もなくなる。戦争も犯罪もなくなる

・だがその世界は、恐ろしく退屈で、なんの発展も、喜びも、活力もない世界だろう。人間は家でゴロゴロして一生を過ごす他ない。これはもはや、一種のディストピアであろう

このような未来予想が、当たるかどうかは、別として。

もし、「当たった」と仮定してみましょう。その場合、僕が思ったのは、「家でゴロゴロしている以外に仕方がない世界が、そんなに悪いことだろうか」というところ。

それって、人類全員が、ひたすら自己自身と向き合うしかなくなるわけで、少なくとも仏教的な発想から言えば究極の理想社会ではないでしょうか。

もしそのような世界になったら、私はどうするか?

まず、密教の世界によくある、「生涯に百万回、このマントラを唱えるべし」系統の、「異常に時間のかかる修行」の類を、そのときこそ試してみるでしょう(いまでも、やってはみたいのですが、社会人生活が許してくれない、、、)

空海先生の真似をして、山にこもってひたすら古典を読み続けたり

瞑想やヨガを極限まできわめる、なんてのも、いい。精神修養系のことが、いくらでも、できる。それで、みんなが仙人のような生き方をすれば、ディストピアも怖くないはず。

まあ、そんなふうになったらなったで、人類はゆるやかに人口を減らして消滅するかもしれませんが、、、。

などというのは、あくまでも空想であって、本当の未来は誰にもわかりませんが、

「アグレッシブに生きる目標がない世界なんて退屈だろう」という考え方には、少し違和感があるし、

そうでなくとも、先がどうなるかわからない昨今なら、なおさら、自我とか主体とか我執とかいったものは、できるだけ軽くするのがよいと思っています。

となると、いつもの結論ですが、、、

とりあえず、外国語を、やりましょう!

自我も相対化できるし、脳は鍛えられるし、読める古典の質量も増える。よいことだらけです!

※尚、空海先生関連の別の過去記事はこちら

▼おすすめの空海先生の著作はこちら▼

空海先生の著作『三教指帰』はシェイクスピア級に「読んで面白く、そして深い」古典文学だと思う話

現代日本の出版事情というのは素晴らしいですね。
などとつくづく、思うのは、
角川ソフィア文庫で、1,000円以下というお手頃価格で、
空海先生の著作、『三教指帰』(さんごうしいき)の
現代語訳版、などという貴重すぎるものが買えてしまうのですから。

なにせ(態度として正しいのかはともかく)通勤電車の中で
空海先生の言葉に触れられるのですから。


一般には、こちらは空海先生の若き日(中国留学前の二十代の頃)の著作であり、いわゆる「弘法大師」となるよりもずっと前の、若書きの作品とされているわけですが。

現代語訳で読んでも、ハッキリ言って、圧倒されます。

何に圧倒されるかといえば、
その豊富すぎる語彙と
何重にも張り巡らされた「漢文からの引用」の妙に。

この本は、物語仕立てになっている論文であり、
筋としては、

・高名な儒学者が出てきて、品行の悪いある人物に、儒教の立場から説教をする

・その次に道学者が出てきて、「わしのほうがより高いレベルの話をするぞ」と、道教の立場から説教をする

・最後に、若い仏教僧(「讃岐の国から来た」等々のセリフから、空海本人がモデルと思われる)がその場に現れて、儒教や道教もまだまだ甘い、仏教こそがそれらをも包摂する、いちばん高いレベルにあるのだ、と説教する。これに、品行の悪い人物(三人がかりで説教された人)だけでなく、儒学者、道学者も「おそれいりました、我々も仏教を勉強します!」と感嘆する

というもの。これだけ読むと、自画自賛の書のように思われるかもしれませんが、

儒学者のセリフも、道学者のセリフも、強烈なほどのリアリティがあります。つまり、「キャラが立っている」。儒学の専門用語や道教の専門用語もバリバリ出てくる。空海先生が、仏教だけでなく、論敵であるはずの儒学や道教についてもかなり深く研究し尽くしていたことがわかるのです。二十代前代の著作で、です!!

そして、細部が、やけに、面白い!

酒宴の様子や、もてなされたごちそうの様子。三人が話をしている場所の描写などが、とても細かい。儒学者、道学者、仏僧の三人が、活発に議論をしている情景が、いきいきと目の前に感じられるような、対話篇になっているのです。物語としても、読んでいて、面白い。

トドメが、膨大な引用。登場人物たちが、「漢の時代の〇〇が言っていたように」とか、「孔子の弟子の〇〇はこういう生活をしていたと伝えられますが、私もまた云々」とか、古典中国文学のさまざまな言葉やキャラクターが引用される。ここは、私も、自分の知識では歯が立たないので、ただただ豊富な引用の緻密さに圧倒されるばかり。

本書の序文で、空海先生本人が、「若いころは、いわゆる『窓の雪明かりや蛍の光で苦学』というレベルさえも超えた勉強時間で猛勉強していた」と言っていることが、テキストの重厚さで証明されております。

何よりも、本書を読んでいると、やる気が出てくる!

説かれている仏教の論理は、まだ私も若いため、完全に理解はできていませんが、「苦学勉強をしなければ」という意気込みになってくる。そういう本です。

このブログで何度も述べている通り、空海先生を、「外国語勉強の大先輩」として畏敬する私、とうぜん、この本を読んで得たモチベーションを、外国語の習得にガンとぶつけていくわけです。

これはもう、「日本におけるシェイクスピア」級の扱いをして、公立学校の国語で採用してくれないものでしょうか?

それくらい、若い人や、次の世代の人にも読んでほしい、大切な一著なのでした。

空海先生とチョーサーとシェイクスピアがつながった話、少しだけブレグジットの話

みすず書房から出ている、外山滋比古著作集の第7巻、『シェイクスピア考』を読んでいて、嬉しい発見がありました。

このブログでも何度も記載している通り、弘法大師こと空海先生が大好きな私、

それも、仏教史の偉い人というよりも、「外国語の天才」として畏敬し、できる限りその外国語能力の真似をしたいと常に思っている私。

そんな私は、いっぽうで、シェイクスピアのような古典英文学も好き。

ところが、この、空海とシェイクスピア、という、一見するとまるで混ざらない対象について、一緒に語られている本があった!、、、といっても、「シェイクスピアについての本の中に、一回だけ、空海についての言及があった」というだけのことですが。

でも、これまた英語学習の先輩として畏敬している巨人、外山滋比古先生の「シェイクスピア考」の中に、ふと、空海を評価する一文があったのです。空海ファンの私としてはそれだけで舞い上がるほど喜んだ。

文脈としては、こうです。

・それまでは、ヨーロッパ大陸の文化(特にイタリア風)を模倣していたイギリス文化が、チョーサーの頃から、「イギリス独自のもの」を追求する気風に変わった。

・この「島国ならではの個性」の追求は、特に言語において顕著であり、チョーサーらの時代の文人は「英語ならではのスタイル」の確立に努力した。

・こうして、イギリスのルネサンスは「大陸と違うこと」を目指すこととなった。この、「大陸から自由になってはじめてイギリスらしいものになる」という考え方はその後のイギリス史でも繰り返されるフォーマットとなった。

・日本も島国なので似た背景を持つ。ここに初めて自覚的になったのはおそらく空海で、彼の書道のスタイルは、中国から学んだものでありながら、日本人の感覚に溶け込みやすいものを目指している」

ありゃ、こうやって書くと、文脈的には「空海とシェイクスピア」が並んで論じられているのではなく、どちらかといえば「空海とチョーサー」ですが。でも、英語史の話の中に空海先生が出てきたのは私には嬉しい。

それに、この論考は、とても興味深いです。

いわゆるブレグジットとの関連で、です。外山滋比古先生がこのエッセイを書いているとき(1980年代)は、ブレグジットなどは予測不能な事柄だったはずですが、「ヨーロッパ大陸から自由であることがアイデンティティ」という発想がイギリスの根幹にあるという指摘、最近のブレグジット報道の背景に据えると、なんだか、とても、見通しが効いてくる気がするのでした。

バーバパパの原本(フランス語)をスペイン語の知識でなんとか子供に読み聞かせられた話

以前、「ロマンス諸語(スペイン語・ポルトガル語・フランス語・イタリア語云々)の勉強は、ある程度、まとめてできるかもしれない」という話を載せましたが、その証左になるのかもしれない話。

子供と一緒に図書館に行ったところ、外国語絵本のコーナーで、子供がバーバパパのオリジナル版(フランス語)に興味を持ちました。

私はスペイン語をやり込んではいますが、フランス語はあんまりやっていない。でもまあ、試してみようと、借りてきて家で読んだところ。

自分でも驚きました、スペイン語からの類推で、単語や文型はほぼ全部わかった!

日本人が、中国語を見たとき、中国語そのものを知らなくても書いてあることの意味はだいたいわかる、という現象とよく似ているのかもしれません。バーバパパ絵本くらいのフランス語のテキストなら、ほぼ、迷うことなく、なんとかなる!スペイン語一発で勉強してきても、このように、フランス語への転用も効くようになるので、

やはり、ロマンス諸語のうちのひとつはやっておくと、いろいろ便利だ、という結論に相成りました。

ただし、スペイン語をやったところで、どうにもならない問題がひとつ。フランス語の、「読み方・発音」、こればかりは、ちゃんとトレーニングしないと、どうにもならない。

というわけで、発音だけは、フランス語のネイティブが同じ本を朗読しているユーチューブ動画を見つけて、

これを完コピして、なんとかしました。

というわけで、子供に対しても、フランス語絵本の読み聞かせ、という珍しい体験をさせてやることができました。特に、二人の子のうち、まだ一歳の次女のほうが、フランス語朗読についてバカウケ。赤ちゃんの耳に、イントネーションが音楽的に聴こえて、面白いのかもしれません。

英語学習の本当の魅力は語彙の凄まじさにあり

一説には、英語という言語の特徴は、語彙の豊富さにある、とのことです。

名詞・形容詞・動詞、品詞はいろいろありますが、とにかく、使用可能な単語が多い、ということ。

日本語にも、「一生使わないようなマニアックな難読漢字」のようなものがありますが(それゆえ、漢字検定やら、難読漢字クイズやらが成立するわけですが)

英語においても、ネイティブスピーカーであっても「なんだこれは?」と驚くようなマニアックな単語なるものが多種あり、しかし、辞書にはちゃんと出ている、という感じです。

実は、この「語彙の豊富さ」というもの、私自身の英語学習経験上でも強く感じてきたことであり、

最近は、この「語彙の豊富さ」を自分の精神の中に取り入れることこそが、英語学習の最大の効用ではないか、と思うようになってきました。

つまり、他者とのコミュニケーションだけではなく、

自分の頭の中で、何か物事を考える際に、英語の語彙を使用できるようになること、これこそが最大の魅力ではないかと。

日本語でものを考えるときに、たとえば「人間の権利」などという言葉を使って考えるより、human rightsという言葉を借用して考えたほうが、思考がスムーズにつながる。

これは、英語というものの語彙が、数の多さだけではなく、少なくとも近代以降、世界中で広く使われてきたために、法律や経済や社会、あるいはビジネスやマネジメントのことを考える上での語彙が、圧倒的に「こなれている」。これと比較すると、日本語の「権利」とか「市民」とか「公共性」とかいった単語は、なんだかんだ言っても、明治維新以降に作った「造語」という感じがして、どうにも、歴史が浅い。英語に出てくる単語ほど、広い地域で、長い歴史をかけて、たくさんの人によって錬鉄されてきた迫力がない。

日本語には、もちろん、日本語の魅力があり、良さがありますが、

語彙の凄まじさ、という点では、これはもう英語にかなう言語はないのではなかろうか、と最近、思う次第なのでした。

歴史の古さや、使用者の広さということでは、中国語とフランス語も、もしかしたら、英語に対抗できるだけのものを持っているのかもしれませんが、残念ながら私がそれらにあまり詳しくないので、比較はできません。専門家の意見などをどこかで見つけたら、ぜひ、参考にしたいところですが、

少なくとも現在においては、語彙の豊富さという面での、英語の圧倒的優位は崩れそうにありませんし、

ひょっとしたらこれを超える言語は(自然言語としては)もう出てこないかもしれない、と、思うのでした。

外国語学習の傾向をビジネスデータで見る話

外国語学習に命を賭ける、、、をテーマに展開しているこちらのブログですが、少し趣向を変えまして、今夜は学習方法ではなく、外国語学習をめぐる昨今のビジネス動向について調べてきた、その報告を差し上げたいと思います。

出典はこちら、矢野研究所の「語学ビジネス市場に関する調査」です。

個人的な予測としては、インバウンド観光の盛り上がりやら、企業のグローバル化の進捗によって、ここ数年で語学学習をめぐるビジネスは成長産業、と勝手に思っていたのですが、果たして実際はどうか?

上掲のサイトのデータを打ち込んで、2013年から2017年までの市場規模の推移をグラフにしてみました。なお、パーセンテージは昨年比の「のび率」です。

ざっと読み取れることとしては、

・このカテゴリー分けでは、「翻訳通訳」が最大の市場で、かつ、ここは毎年、伸び盛り。機械翻訳とか翻訳ソフトとかが出ていますが、順調にニーズも膨張しているので、翻訳や通訳のできる人材はまだまだ必要とされていそう。

・次に巨大な市場が、成人向けのスクール。それは予想していたことなのですが、年々、「グループレッスン」のスクールが微減して、「マンツーマン」のスクールが微増しているのは、何かの変わり目を暗示しているのかも。とはいえ昔ながらのグループレッスンスクールはまだまだ強い。

幼児向けや子供向け、留学斡旋といったジャンルは、順調に伸び盛り。起業のチャンスなどもまだまだあり得る領域かも

・電子辞書や、外国語学習ソフトは、どうやら斜陽産業。ネット上での辞書サイトや学習サイトに、良質のものが増えたためでしょう。その証拠に、e-learningの領域は順調に年々拡大しています。これも伸び率としては順調なので、ベンチャーの参入などもまだまだあり得るかも。

・個人的に、意外で、しかし嬉しかったのは、書籍教材の市場規模が停滞していること。てっきり、書籍という世界はのきなみ斜陽なのかと思っていたところ、少なくとも外国語学習教材の世界では、「書籍出版」されたものへのニーズが安定しているようでした。これは「おすすめ外国語学習教材」なるページを本ブログで展開している私にはうれしい結果でした。私自身、なんだかんだ、書籍の教材をコレクションするのが大好きなので。

思い付きでやってみたデータ収集ですが、いろいろ発見があり、面白かった。

また、ネットで、語学学習についての面白いデータを見つけた際には、出典明記の上、このブログでも紹介することにします。