夜中に目が覚めてしまって眠れなくなった?よし、外国語をやろう!

今年は、絶賛、育児パパ中です。

育児を経験した人ならわかるはず。零歳児をかかえていると、夜中に夜泣きで起こされることなど、もはや日常。それでもお父さんには平日には会社勤めがありますので、夜中に起こされてオムツ替えをしようがミルクをあげようが、少しでも睡眠時間を確保するために、また寝なくちゃいけない。

そういうわけなのですが、これも年齢か、どうも最近、夜中に一度起こされると再度寝付くのに時間がかかるようになり。しかも、それが習慣化してきているのか、たまに、子供は平和に寝てくれているのに、勝手に夜中の二時や三時に目が覚めてしまうことがあるようになりました。

そういうときは、最近は、もう、開き直って、

二時に目が覚めたら、二時間くらいは、起き出して、時間を潰して、四時頃にまた寝つく、ということをするようになりました。

二時間くらいの時間つぶし、何をしているかって?

はい、例によって、結局、外国語です!笑

いや、ですがこれが、なかなか効率がいい。夜に三時間くらい寝て、二時間くらい起き出して外国語学習をやって、また三時間くらい寝るわけです。科学的根拠を調べたわけではありませんが、どうも自分としては、このやり方をすると、勉強したことの記憶への定着が、よい。半分寝ぼけながらがんばって読んだこと、翌朝起きてからも、よく、頭に入っているのです。

育児の忙しさから生まれた、私なりの、外国語学習メソッド!

これはしばらく、やみつきになりそうな様子です。

でも、昼間、とても眠くなるので、健康全体にとっていいかとなると、ちょっと不安。長続きはしないメソッドかもしれません。。。w

電子書籍で横行し始めているズルい技が、僕ら英語学習者にはなかなか好都合な話

AmazonのKindle愛好家ですが、そんな私が、最近、洋書の世界を覗いていて、思うこと。

特にIT技術系の本や、プログラム教則本などに見られる気がする事態ですが、同じ著者が、全く同じ内容の本を、章立てを変えたり、体裁をQ&A式に変えたりして、何冊にも増やして売っている。つまり、「よくわかる◯◯の本」を一冊出したら、そのあとに、「Q&Aでわかる◯◯の本」とか、「イラスト付きでわかる◯◯の本」とかが、同作者の新刊として続いている。ですが、読んでみると、書いてある内容はどれも同じじゃないか!となる。もともとの一冊の内容がちゃんとしたものなら、それを体裁を変えて発行していき読者の間口を増やそうというのは、まあ詐欺ではないし、これでお金を稼ごうとしている発行者側の身になればわからなくもない話ですが、なんとなく、思ってしまう。ずるい。

ですが、こういう著者の本は、だいたい価格暴落して、Amazon内では読み放題対象になっていたりするので、僕のようなamazon kindleのコアユーザーの立場では、がんがんダウンロードして、「ほら、こことここ、こことここ、まったく同じ内容じゃん」と突っ込みつつ読むことができます。

で、この読み方が、意外に、英語学習には、よいみたい。

同じ作者の、同じ内容の教則本が、違う文体の英語書籍としてお安く購入できて、かつスタイルの違いを比較しながら読むことができるのだから、当然同じような単語が頻出するので語彙の練習にもなる。だいいち、「イラストだらけの本になると、同じことを説明するにもこんなにくだけた言い方になるのかー」とか、文体の細かい違いのサンプルがとれて、なかなか面白い。

そして、ずるい話ながら、

こういう同作者の本を連続して読むと、人に会った時、「俺はこの3日で三冊、英語の本を読了したことろなんだ」と言える。実はほぼ同じ内容の本なのでそんなに凄くないけど、凄そうに聞こえるように、言える笑。これはこれで、少しずるい?

ともあれ、AmazonのKindleの読み放題を駆使すると、いろんな、外国語学習方法が見つかるもので、そのうちのひとつとして、最近私が発見したメソッドの、ご紹介でした!

実語教の英訳なるものを見つけた話

昨日は、「空海さんの《虚空蔵求聞持法》の考え方は、現代の外国語学習メソッドに応用できるんじゃないか」みたいな、我ながら凄まじいことを書いてしまいました。発想としてアブナイことは百も承知。ですが私の理解しているところでは、外国語学習というものは、スキルアップのためのものでも、脳トレのためのものでもなく、カルロス・カスタネダが幻覚サボテンを服用することでインディオの精神世界を身をもって体感した話のように、心身を危険に晒して、何か「いままでの自分を越えるもの」と遭遇すること。

そのような考え方に立てば、空海さんの虚空蔵求聞持法の修行と、「あえて」外国語だけしか通じないところに自分で自分を追い込んで、日本語脳を荒っぽく破壊する外国語学習のいちばん苦しい(しかし有意義な)ところを、似ているものとして扱う私の気持ち、多少、伝わりますでしょうか? あ、もちろん、言い過ぎていることは承知で、確信犯的にこの辺りは書いています!

ところで、空海さんのことは、英語圏でどのように紹介されているのか?

そんなことを思いついて探していたら、目的のものとはいささか違いますが、面白いものを見つけた。英語圏のテニスコーチ(!?)が翻訳したという、「実語教」の英語版。しかもそれが、「弘法大師の著作である」とされ、空海さんのプロフィール紹介と一緒に電子書籍としてまとめられておりました。

実語教が空海さんの著??

たぶん訳者の方が間違ったソースを信じているのか、あるいはこの翻訳者は実際に父母から「実語教とはお大師様の言葉じゃ」と伝承されて育った人なのか。間違い、というには、あまりにも自信たっぷりなので、背景事情がどうもありそうだ。というわけで、そこにはとくには突っ込まず、素直に中身を読んでみました。

まずは英語での、空海さんのプロフィール、これがなかなかコンパクトにまとまっていて、よかった。僕も外国の方に弘法大師のことを話す時
(そんな機会があるかどうかはともかく、、、) には。こんな紹介文をそのまま参考に使いたい。

Kōbō Daishi(弘法大師) is the honorific Buddhist title given to Kūkai(空海) after his death: kōbō meaning “to spread widely the Buddhist teachings” and daishi, “great teacher.” He is one of the most respected and popular Buddhist masters of Japan. His achievements are many: founder of Shingon or Esoteric Buddhism in Japan, founder of the monastic center on Mt. Kōya, civil engineer, great calligrapher, a wandering saint, and originator of the pilgrimage circuit of 88 temples on Shikoku. He has been admired in Japan as a culture hero and creative genius.
とまあ、こんな具合。

肝心の、実語教の英訳パート自体も、なかなかよいものだった。書き出しの、「山高いがゆえに貴からず、樹があることをもって貴しとなす」は、Mountains are not magnificent because of loftiness. Mountains are magnificent because of trees.
とか、ちゃんと格調の高い語彙を選んで英訳に当てている。誠意のある翻訳であり、ご本人も空海さんと実語教が好きなのだな、と伝わってくる。繰り返す通り、空海さんと実語教を同一に結びつけるのは歴史学としては問題ありなのだけど、そういうこと、ここでは、なんだか指摘するのは野暮ったい。

空海さんに見倣う外国語習得方法の話

先日の「偶像崇拝禁止をあえてやってみよう!」の話の続き。

ますます思うこと。世の他の人たちはどうであれ、流行がなんであれ、少なくとも私は視覚よりもひたすら「活字」愛好家として、行きつけるところまで生き方を極めつくしてみたい。毎日、英語やらスペイン語やらの多外国語の練習をしていると、「文字」というものそのものの持つ魔力の虜になっていくのです。これがいいことなのか悪いことなのかはよくわかりませんが、少なくとも私は、視覚メディアに触れる時間をダイエットのように管理して切り詰め、できるだけ「文字」とにらめっこをしている時間を長くすると、どんな豪快なハリウッド大作の映像よりもずっと深い精神の領域にトリップすることがあるのことを知っているのですから。ちょっとこの論点は危ないでしょうか。

外国語学習をやればやるほど、精神がぶっ飛んでいく感覚について、思い出すことがひとつ、あります。

子供の頃に愛読していた本の一つが、いわゆる「まんがで読む偉人伝」の類。学習漫画というやつですね。ただ私の場合、織田信長とか豊臣秀吉とかよりも、弘法大師空海さんの伝記漫画に圧倒され、決定的な影響を受けました。中国語をマスターして長安でデビューし、インド人僧侶からサンスクリットの手ほどきまで受けてそれもマスターし云々という、外国語習得についてマルチな才能を発揮するあたりが、子供心に、とても恰好いいと思ったわけです。

日本を武力で統一するにも、そりゃ、すごいですが、

平安の世という段階で世界の数か国語を究め尽くし、そのスキルでもって当時の最先端の宗教哲学を翻訳(あるいは翻案?!)してしまったほうが、少なくとも私の感受性においては、格好よく映ったわけです。

その学習漫画には、とても印象深い場面がありました。まだ若い修行僧だった空海さんが、あるマントラを丸暗記して、それを山籠もりをして何千回も何万回も、ただただ、ただただ、日々、暗唱を繰り返していく、というところ。大人になってから調べると、虚空蔵求聞持法という修行のやり方だそうですね。このマントラを百日間で百万回暗唱することで、超人的な知力が備わる云々、、、という触れ込みは実はどうでもよくて、肝心なことは、少なくとも空海が仏教修行に励んだ時代にはこのような修行方法が日本にあって、空海さんもチャレンジしたらしい、ということ。

変わった子供だった、と言われることは覚悟で明かしますが、少年時代の私、学習漫画に出てきた空海さんのこの修行になぜか憧れて、いつか自分もやってみたいな、と思ったのです。なぜそう思ったのかは、今ではよくわかりません。異様に格好いいな、と思ったのです。子供心に。

しかし、同じ言葉を何度も何度も暗唱していくと、頭痛がしても、夢にうなされるようになっても、歯を食いしばって何度も何度も暗唱していくと、突然、何かがはじけるように脳がクリアになる、という経験は、確かに今の私にも起こることなのです。特に、外国語を学んでいる時に、スランプに陥ったら、何らかの外国語の文章を丸暗記して、それをぶつぶつ、ひたすらに暗唱していくと、突然ブレイクする瞬間がある。

空海さんにかこつけるほど仰々しい話にする必要はないのかもしれませんが、

外国語の文章を丸暗記して、意味も感受性も放逐した状態で、ただひたすらに暗唱をしていくと、スキルがブレイクする、というのは確か。ひょっとしたら空海さんが外国語の天才だったのは、若いころに仏教修行で実践した虚空蔵求聞持法を応用した外国語学習術(暗記と暗唱!)を開発していたからなのではなかろうか、などと、推測してしまうのでした。

真面目に外国語学習を進めていくと偶像崇拝禁止に納得してしまうようになる話

とくだん一神教徒ではないけれども、ただひとつ、いわゆるユダヤ教イスラム教で言われるところの「偶像崇拝の禁止」という戒律には、とても共感を持っています。不思議な話に聞こえるかもしれませんが、外国語の勉強を、熱心に、長年やっていると、だんだん、偶像崇拝の禁止の「効用」がわかってくるのです。つまり、「視覚」というものに、なんでもかんでも頼ってしまうと、見逃してしまうナニモノかが、この世界には、確かに、ある。

別にオカルトの話をしているわけではありません。

現代人が、電車や飛行機や車の便利さに慣れすぎて、歩く機会が減ってくると、それによって昔の人では考えられなかったような成人病に悩まされるように、

今の時代、なんでもかんでもが「視覚」で与えられ、説明されることに慣れすぎて、「言葉だけで理解することのできるもの、感じることのできるもの」の領域への不感症のようなことが起こっているのではないでしょか。

特にそんなことを思うようになったのは、僕にとって大事なファンタジー小説の金字塔、『指輪物語』について、ある時期から、ファンの描くイラストや、舞台となっている「中つ国」のイメージが、完全に、映画『ロード・オブ・ザ・リング』に洗脳されきってしまっているのを見るようになったから。最近はなんでもかんでも、すぐ映画化やコミック化をされてしまい、出来合いのイメージが誰かから与えられてしまっている。それがすべて悪い、といっているわけではありません。僕だって映画の『ロード・オブ・ザ・リング』は好きだ。ですが、あの映画を見る前に、自分の力で原作小説を読み込んだ時に作り上げた「自分だけの中つ国のイメージ」というものが、確かにあって、それは自分の中にとても漠然とした(それだけに可能性にも満ちた)イメージとして存在していたため、それがどんなものかを他人に共有することは不可能で、自分で思い出すのも、指輪物語の小説をもう一度最初から読み直さないと思い出せない。そんな不可思議な状態で存在している「わたしだけの中つ国」があったはず。映画版を見たからといって、子供の時から培ってきた、その「わたしだけの中つ国」を失いたくはなかったので、かの映画が出た後の僕は、原作小説を読むときは、なるべく、「あたかも映画版など見たことがないかのように」自分に言い聞かせてから、読むようにしている次第です。それでも、どうあがいても、僕の頭の中でのガンダルフの顔は、しばしば、どうしてもイアン・マッケランの顔に似てしまって、困ってしまいますが。視覚イメージというものがどれだけ強烈か、という証左。

たかが、ファンタジー小説一本をめぐっても、こうなのだから。聖書やら、神曲やら、日本でいえば平家物語やらといった、「そもそも視覚イメージで量産されるような読まれ方を想定されていない」はずの古典作品を、昔の人と同じように、「言葉だけで構築されるイメージの世界」を紡ぎながら読むというのは、現代人にはとても難しくなっているのではないか。

でも、こう考えればいいのかもしれません。

お酒を飲むことに寛容な今の時代に、あえて「健康のためにお酒を主義として飲まない」生き方がアリなように、

電車や車や飛行機など交通手段がいくらでもある今の時代に、あえて「健康のために自転車をできるだけ使う」生き方がアリなように、

映画やコミック化されているとわかっている小説を、あえて小説版だけ読んで、視覚メディアのほうはできるだけ無視する、という生き方もアリなのではないでしょうか? 外国語で本を読む、という試みを必死に追ってきた僕にとっては、その生き方は、とても健康的であること、それは保証できるものだからです。肉体のダイエットのように、「できるだけ言葉だけで情報を仕入れ、言葉だけで想像の世界を開拓する」という昔ながらのメディアとの付き合い方に専念することは、精神をシャープにしてくれる。いわば、断-視覚メディアダイエット!

そもそも、中東の一神教でいう偶像崇拝禁止のココロも、真に神秘的なものは人間の認識能力(視覚だろうが聴覚だろうが)を越えているので、接近するには言葉を通じての深い観想を通じてでしかない、というところにあったのではないでしょうか。

そう考えると、仏教の殺生戒(たとえ小さな虫でも殺すな)とか、イスラム教の飲酒禁止とかは、私には真似できそうにないけれども、偶像崇拝禁止という意外なものは真似できるかもしれないし、その効用もおおいにあるのではないでしょうか。

などという考え方に、僕は宗教や神話の研究ではなく、外国語学習の積み重ねから到達してしまった次第です。だから、仏教でいう空海さんとか、ドイツのハイデガーだとかのような「論理に論理を重ねることで、論理を越えたナニモノかを語っている」ようなスタイルの本が、この年齢になってからなおさら、好きになっています。ちょっと危ない人と見られていることは、これはもう、覚悟の上の、生きざま。