外国語のやりすぎで心身が危険になったときに考える即身成仏のことだとか

またしても、外国語のやりすぎで、きぶんがおかしくなりました。以前もこの話はしましたが、母国語である日本語を含めて、英語もスペイン語も、何もかも、自分の中にあったはずの「諸言語」が全部クラッシュして、世界のカオスにそのまま投げ出されてしまったような感覚。言語が壊れたことで、世界が「無」に見えるのではなく、逆に、処理不可能なほど、圧倒的に豊穣に見えてしまい、潰されそうな感覚。過去の私の日記を読んでいると、だいたい、二ヶ月に一回くらいは、この危険な状態に陥ってしまっているようで。今回も、「外国語をさすがに昨夜遅くまでガリ勉しすぎたかなー」という重い疲労感が朝からあったのですが、それが長引き、夕方に突然、自分というものが、「落ちた」。

でも、どうにか、戻ってきました。母国語たる日本語をOSとして、再起動が完了した感じ。

こういう話をすると、「なにもそんなに自分を追い込むほど外国語をやらなくてもいいじゃない?」と人には言われそうですが、でも、この「危険」がどこかで好きで、やっているところもあるので、

結論、外国語学習は、やめられない。

それに、このブログでも、何度も、仏教の修行と外国語学習の親近性については語ってきましたが、「母国語以外の言葉をやりすぎて、自分が消える」感覚、そして、「そこからなんとか戻ってきたときの清浄な心持ち」、

仏教については門外漢ですが、やはり、なんか、似たところにいるような気がしてならない。

過去の仏教書で私がいちばん好きなものが、「歎異抄」でも「般若心経」でもなく、弘法大師の「即身成仏義」だというのは、この辺りの事情かもしれません。

外国語の勉強のしすぎで壊れそうな時に、曼荼羅なんぞをみていると感じる、とても寂静な感覚。あのたくさんの仏様たちは、しかし、何語を喋っているのだろう。日本語でも英語でも、古代サンスクリット語でもない、何か特殊で高度な、「仏様の言語」みたいなもので語り合っているはずだ。そんなふうに考えると、英語がどうしたスペイン語がどうしたのといった、所詮人間の言語をめぐるあれやこれやがすべて小さいことに見えてくる。本当に普遍的な言語は、きっと、あの曼荼羅の中で語られている、私がまだ触れたことのない言語なのでしょう。

あ、でも、それがつまり、「真言宗」の名の由来、「真言」ということか!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です