空海先生は、やまとことばと漢文とサンスクリットをスライドしていた、と思う話

しつこいようですが、弘法大師空海が好きです。

それも、宗教家としてのお大師様だけでなく、外国語習得者の大先輩として、空海さん(外国語修行について語るときはあえてこう呼びたい)を尊敬しております。

いってみれば、サッカーが好きな人が中田英寿を、野球が好きな人がイチローを尊敬するようなもの。とてもとてもかなわないレベルだが、少しでも真似をしたくなる先人として。

※と、中田やイチローの名前を出してふと思ったことですが、真言密教における仏教修行って、「体をしっかり管理し、徹底的に鍛え、かつ座学の勉強も日々怠らない努力を重ねれば、個人差はあれ、誰でも精神のレベルを上げていくことができる」という発想の点で、スポーツ科学に似ている合理性があるような。間違っていたらすいません、、、。

とりわけ、自分が、外国語なり、言語一般なりを勉強していると、どうしても陥ってしまう、「結局はどれかの言語に偏ってしまう」傾向を、どうも空海さんは突破しているように見える。私が見ているのは、日本語における、「やまとことば」と「漢文体」のバランスをめぐる古くからの議論のことで、

概して、やまとことばは感情表現に向いており、漢文は客観的なドキュメントに向いている、という話を聞いたことがあります。私もその意見に賛成で、現代日本人も、「会話の中でやまとことばを多用する癖のある人」「会話の中で漢文体を多用する癖のある人」とに分けることができるように思っています。かつその双方は、たまにまるでコミュニケーションが通じないほど、こじれることがある。

かくいう私も、実は完全に漢文好きの方で、同じことを言える文章なら、ひらがなだらけよりも、漢字熟語をたくさん入れてカタく引き締めたいほうです。特に外国語をやっていると、やまとことばのような、論理よりも情感で組み立てられる言葉の世界については、直感的に「外国人にとって勉強しにくい=閉鎖的だ」と思って敬遠してしまうようになる。

空海さんも平安期のエリート僧で、中国留学を果たした方ですから、当然、漢文派、なはずなのですが。どうも、民衆にもわかりやすい表現を探すとき、あっけなく、やまとことばの世界に回帰しているように見えます。両方のスピリットを自在にスライド移動できるような。これは伝説かもしれませんが、「いろはうた」の原型は空海さんが作った、というハナシを信じるならば、民衆に浸透する流行歌の作詞までできたような話になり、ことばの使い手として見た場合、驚異的です。

ところが空海さんの場合はこれにとどまらず、今でも若い子たちが(おそらくはよくわからずに、でしょうけれども)Tシャツのデザインなんかに使うこともある、サンスクリット語の日本仕様変形版、「梵字」の普及に邁進したのも弘法大師なので、話はさらにハイレベルになる。

梵字、ときいてもなかなかピントこないかもしれませんが、たとえば写経を体験するとき、漢文で写経をするのと、梵字で写経をするのとでは、これはたしかに、後者のほうが写経の目的には適う。うまくいえませんが、意味の剥げ落ちた記号の形態そのものに集中しているうちに、確かに、意味の向こうの宇宙が垣間見えてくるような。

梵字、漢文、やまとことば。

どれも日本語を支える大切な歴史的遺産であり、今日の日本語を考える上でも三つ全部に目配せをしなければいけないのでしょうが、しかし、これは、なかなかできない。

この三つの層を自在にスライドした空海さんは、やはりイチローやボルトやマイケルジョーダン級に、「アスリート的な視点で見ても、百年に一度レベルの存在」だったのではないでしょうか。フィールドが仏教という、現代日本では流行らない分野のために目立ちにくいだけで。

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