小川直樹さんの『イギリス英語発音教本』は、イギリス英語以外の言葉の発音をよくしたい人にもめちゃくちゃ便利なトレーニング本だった話

このブログで何度も表明している通り、私は、外国語の本をたくさん読みたいから外国語を熱心に勉強しているのであって、スピーキングについては、露骨に、捨てております。読み書きができれば、喋りのほうは、別に、いい。特に「発音」なんて気にしない。話せなくったって、通じなくたって、別に恥ずかしくない。

・・・と、見栄を切れれば恰好がいいのですが。。。

はい、言いすぎました。喋りのスキルを捨てているのは、時間がないからと、やってもやっても報われない苦役のようなところがあるからで。。。もし、発音がきれいになるメソッドがあるなら、それはもう、私だって、きれいにしたい。

そう思っていたら、とても便利な本を見つけました。

小川直樹『イギリス英語発音教本』

なにげなく手に取った本だったのですが、めちゃくちゃ便利な本でした。何が便利って、本書の前半を使って懇切丁寧に述べられている、母音の発音のマスター方法が、おそろしく、わかりやすい!

外国語を必死でやったことがある人なら、悩まされた経験があるはずの、母音四角形。「けっきょく、ɑ,a,ɐの音の違いって、なんなんだよ? 四角形に描かれたって、微妙な違いすぎてわかんねーよ!」と、誰もが(たぶん)激怒した記憶があろう、あれ、ですが。

英語のみならず、他の言語をやる時も、どうしても、出てくる、この四角形について、本書では恐ろしく明快な「おぼえかた」が紹介されておりました。ざっと要約すると、

【1】四角形の中の、左上の「i:」、右上の「u:」、右下の「ɑ:」の、三か所の音を、先に徹底的に練習する。この三つは、それぞれ、「日本語のイ・ウ・アよりも、おおげさに思い切り口の形を作って出す、[イー][ウー][アー]と、覚えられる。これをたとえば、”I bought these boots at the market.”のような「i:」「u:」「ɑ:」音すべてが入っている文を暗誦することで覚えていく

【2】「i:」「u:」「ɑ:」の音に慣れたら、「i:」の口の形からしだいに「ɑ:」の口の形へとゆっくり推移していく練習をする。同じように、「ɑ:」の口から「u:」の口へ推移する動きも、ゆっくり、やってみる。

「イー⇒アー⇒ウー」と、口の動きを変えていく途中で、スナップショットのように合間合間で口の形を停めていくと、見事に、上記の10母音分の音が得られる!あとの母音ɪ,ʊ,ʌ,ɘは、ここで手に入れた10母音の、「口の形をあまり変えない脱力系シリーズ」と考えれば、わかりやすいはずだ。

と、まぁ、このような議論なのですが、単純ながら、私には効果絶大な練習となりました。なんのかんのといっても、日本人にとって、英語の母音の多さは人生の最後までネックになるところのはず。本書に掲載されているような方法で、英語を、「母音の完全制覇」からアプローチしていく、なんてのも、とても面白い試みではないかなと思いますが、いかがでしょう?

トワイライトゾーンで英語を学ぼう!第3回 : TO SERVE MAN

エピソードデータ

タイトル:TO SERVE MAN
日本語版(ミステリーゾーン)邦題:人類に供す
エピソード番号:#89 (第3シーズン)
放送日:March 2, 1962
脚本:Rod Serling
私のお気に入り度:ベスト3

あらすじ

地球上の、ありふれた、ある一日のこと。

いつもどおり、人々は働き、買い物をし、つまらないことに悩み、つまらないことに笑い、各国の政治家たちは醜い紛争や対立に明け暮れていた。そんな、ありふれた、ある一日のこと。

ニューアークに、南フランスに、リオデジャネイロ郊外に、その他、地球の各地に、UFOが着陸したという連絡が入る。降りてきたのは、惑星「カナミット」からやってきたと自己紹介する、身長2メートル半ほどの長身の宇宙人たち。彼らは、地球が環境汚染や貧困、戦争の危機にさらされているのを見て、ぜひ、高度な文明を供することで助けになりたい、と申し出る。

国連本部を訪問した、カナミット側の代表大使は、こう宣言する。
「地球を、ぜひ、飢餓や戦争から救ってあげたい、そのような『人類へのサービス(提供)』が我らの喜びにもなるからです」

最初は疑っていた地球の政治家たちも、カナミット人たちの提供するテクノロジーが、確かに、貧困や飢餓の解決につながる技術であることを知り、すっかり信用するようになる。やがて地球からは戦争も国家対立もなくなり、地球人とカナミット人の相互交流もどんどん深まる。わずか数年で、地球人の間では、惑星カナミットを休暇に訪問することがブームとなっていた。

だが、いっぽうで、アメリカ政府の密命を受けた暗号解読チームが、カナミット人の大使が常に手に持っている謎めいたパンフレットを入手し、その解読という難題に挑んでいた。

暗号解読チームによれば、どうにかパンフレットのタイトルの解読にはまず成功。その資料名の意味は『人類へのサービス(TO SERVE MAN)』とのこと。ふむ、タイトルを見る限りは、どうやら、彼らの言っていることと、このパンフレットとには矛盾はなさそうだが、、、。

評価

トワイライトゾーン初心者の方にも、安心して勧められる、シリーズ随一の傑作です。ブラックなテイストといい、どこか脱力したユーモア感覚といい(この牧歌的なユーモア感覚が、強烈なオチの際にはジワジワ効いてくるわけですが)、本シリーズの特徴がぜんぶ出ていて、「これぞトワイライトゾーン!」と叫びたくなる。星新一の作品のような、「辛辣なブラックユーモア」を得意とするショートショートの感覚に似ている。よく考えたな、という愉快なオチ!だが、ものすごく、残酷で、救いがなく、暗いオチ!

作中の気になる英語表現

本作品のポイントとなるのは、タイトルに出てくる、SERVEという動詞そのもの。コンピューターの世界にも、「サーバー」なんて言葉があるとおり、「サービスを提供する」とか「奉仕する」という意味の他動詞。本作品に登場するカナミット人たちのキーワードが、この、『人類にサービスすることが、そのまま我々の喜びになるのです」という、一聴したかぎりではとても博愛的な思想。彼らは嘘をついているのか、それとも真実、「人類にサービス」するために来たのか。そこが本作の鍵になるのですが、

結論としては、カナミット人は嘘をついていなかった。ただ、「あー!そこにサービスしに地球へ来たのね」と笑ってしまうオチが用意されている。この転回ぶりが実に巧い。

これ以上を喋るとネタバレになってしまいますね。ネタバレを承知で、本作品の英語表現、「動詞SERVEを使ったどんでん返し」のことを知りたい、という方のために、別途、ページを用意しておりますので、そちらお待ちを。

ただ言えることとしては、この作品、英語の動詞SERVEを使った、一種のダジャレというか言葉遊びが面白さとなっているので、日本語訳はきわめて難しい、ということ。ところが、本シリーズの日本放送時、『ミステリーゾーン』の訳者はなかなか巧みで、この作品のタイトルTO SERVE MANを「人類に供す」と訳した。確かに、これなら、オチのダジャレが英語そのままで使えますね。考えたな!

ちなみに私もがんばってみて、本書のタイトルを、ちゃんと本作のオチの言葉遊びにもつながるような日本語に、訳してみました。『地球人への無償サービス』などというのはどうでしょう? あー、でも、ここまでやってしまうと、カンのいい人はオチの展開にピンときてしまうかな、、、?

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おもいきってラテン語にまで手を伸ばしてみると、ロマンス語の神様が一瞬、降りてくる、という話

言語マニアとしての、私の願いを、いつかかなえてほしい。ロマンスの神様に、ではなく、ロマンス諸語の神様に、です。ロマンス諸語はやはり格好がよいし、先入見があるかもしれませんが、おしゃれに感じる。使いこなしたい!

このブログで何度か語ってきた通り、生涯にひとつでも多くの言語をマスターしてから死にたい、という夢を持つ私。いろいろ手を出してきましたが、ここ一年を見る限り、ロマンス諸語と、かなり相性が、良いみたい。私が考えている「ロマンス諸語」というのは、スペイン語・ポルトガル語・フランス語・イタリア語のことです(ほかにルーマニア語等も含まれまずが、さすがにそこまでは手が伸ばせない・・・)。

出典:基本から学ぶラテン語(ナツメ社)

歴史的な展開の図示は、上掲の感じ(オック語ってなんだろう、、、??)。難しく考えず、「ラテン語から分かれた言葉」と言ってしまえばわかりやすい。ラテン語とは、ほぼほぼ、「古代ローマ帝国の言葉」と考えていいわけなので、古代ローマ帝国が崩壊した後の子孫たちが、それぞれの国や地域で継承してきた言葉、ということになります。ただし、この話、もともとラテン語というキレイな言語があって、そこからいくつかの言語が分かれた、というわけではなく、もともと古代ローマ帝国の中でも地域によってぜんぜんちがう「ラテン語」を話していたという事情もあるので、必ずしもすっきりと整理できる話でもないのですが。

それは、ともかく。

ロマンス諸語を横断的に勉強していると、どうしても、その前段階に位置する、ラテン語にも興味が出てきます。というわけで、以下の一冊を手に取りました。ラテン語の語学テキストなどというものが、あっけなく、駅前の書店で手に入ってしまう現代日本の出版事情って、やっぱり、いまだに、凄いと思います、、!

本書を読んでみると、なにせ、著者自身が、「ラテン語はとびきり難しい言語で、修行八年と言われておる」的な意味のことを最初のほうに書いている。これを読んで、さっそく、「ラテン語をマスターしたい」という野望は、私としては、諦めました。あくまで、今、勉強中の、ロマンス諸語(フランス語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語)の補完の為の読書として、本書一冊を読み通す。

内容すべてを理解しようとはせず、ラテン語の概要を知るために一読するには、ちょうどよいテキストでした。まず、「こんなに暗記することが多いのか!」という驚愕が来る。なにせ、ラテン語というもの、動詞だけでなく、形容詞や、果ては名詞にまで、複雑な活用形があるのですから! 過去形と分詞と三人称単数くらいしか活用変化のない英語の世界が懐かしく感じる。。。

しかし、ラテン語の概要を掴むことで、他のロマンス諸語をやっている時に感じた、いろんな「ナゾ」のルーツが見えてきて、実に面白い!

接続法のナゾとか

スペイン語でいう「点過去と線過去」の区分のナゾとか

何より、ロマンス諸語にあるたくさんの単語の語源が、ラテン語の中にどんどん見つかるのは、スリリングなこと、この上ない経験でした。

西欧圏の人たちが、日本語と韓国語と中国語を平行で勉強しているあいまに、ふと、古代中国語の本を読むと、こんな感じを味わうのかもしれません。「ああ、こういうふうに、ぜんぶつながっていたのか!」と。

それにしても、気になる点は、本書の解説によると、「ラテン語は単語の活用が複雑な分、語順はいい加減で、英語の五文型(SVO云々とか)みたいに、きれいに整理ができない」ということ。語順がルーズである分、古代ローマの知識人は、凝りに凝った複雑な文体でドキュメントを描いていた、とか。それが本当だとしたら、ラテン語をマスターして、かつラテン語の本が読めるレベルに到達しようとすると、これは大変な道のりになりそうですね。

さすがに、そこには欲張らず、

勉強先を、現代のロマンス諸語に、戻すとします。

やけに面白い(はずの)スペイン語動画

面白そうな動画を見つけました。

日本で言えば、「次々に登場する人たちの話し方(方言)を聴いて、どこの出身者か当てようクイズ!」というところでしょうか。

ただし、さすがはスペイン語圏。対象がヨーロッパから中南米までと、スケールが巨大。

それでも、みんな、「あ、この人はアルゼンチン」「んー、たぶんコロンビア人」「これはわかった!メキシコ人!」とどんどん当てていくので、

やはり、スペイン語とひとくちに言っても、「いろんなスペイン語」があるのだな、と実感させられる動画でした。

ただ、残念なことには、、、

今の私のスペイン語能力では、ぜんぜん聞き分けができない!それゆえ、「あー、コロンビア人だと思ったのに、ハズレかあ!でも、すごくコロンビアっぽい話し方をするよねー!アハハ」とか、この動画の中でオモシロになっている部分の、面白さが、わからないw。

私もこういう動画の面白い箇所がわかるようになりたい!外国語の方言や訛りを聞き分けるなんて超上級のレベルでないといけない、遠い目標ですが、

なにせ、楽しそうなのだから、いずれは是非到達したい!

外国語のやりすぎで心身が危険になったときに考える即身成仏のことだとか

またしても、外国語のやりすぎで、きぶんがおかしくなりました。以前もこの話はしましたが、母国語である日本語を含めて、英語もスペイン語も、何もかも、自分の中にあったはずの「諸言語」が全部クラッシュして、世界のカオスにそのまま投げ出されてしまったような感覚。言語が壊れたことで、世界が「無」に見えるのではなく、逆に、処理不可能なほど、圧倒的に豊穣に見えてしまい、潰されそうな感覚。過去の私の日記を読んでいると、だいたい、二ヶ月に一回くらいは、この危険な状態に陥ってしまっているようで。今回も、「外国語をさすがに昨夜遅くまでガリ勉しすぎたかなー」という重い疲労感が朝からあったのですが、それが長引き、夕方に突然、自分というものが、「落ちた」。

でも、どうにか、戻ってきました。母国語たる日本語をOSとして、再起動が完了した感じ。

こういう話をすると、「なにもそんなに自分を追い込むほど外国語をやらなくてもいいじゃない?」と人には言われそうですが、でも、この「危険」がどこかで好きで、やっているところもあるので、

結論、外国語学習は、やめられない。

それに、このブログでも、何度も、仏教の修行と外国語学習の親近性については語ってきましたが、「母国語以外の言葉をやりすぎて、自分が消える」感覚、そして、「そこからなんとか戻ってきたときの清浄な心持ち」、

仏教については門外漢ですが、やはり、なんか、似たところにいるような気がしてならない。

過去の仏教書で私がいちばん好きなものが、「歎異抄」でも「般若心経」でもなく、弘法大師の「即身成仏義」だというのは、この辺りの事情かもしれません。

外国語の勉強のしすぎで壊れそうな時に、曼荼羅なんぞをみていると感じる、とても寂静な感覚。あのたくさんの仏様たちは、しかし、何語を喋っているのだろう。日本語でも英語でも、古代サンスクリット語でもない、何か特殊で高度な、「仏様の言語」みたいなもので語り合っているはずだ。そんなふうに考えると、英語がどうしたスペイン語がどうしたのといった、所詮人間の言語をめぐるあれやこれやがすべて小さいことに見えてくる。本当に普遍的な言語は、きっと、あの曼荼羅の中で語られている、私がまだ触れたことのない言語なのでしょう。

あ、でも、それがつまり、「真言宗」の名の由来、「真言」ということか!

保坂道雄さんの『文法化する英語』を読んで「自己組織化する言語」というアイデアにおおいに共感した話

開拓社から出ている「言語・文化選書」シリーズは良書揃いではありますが、本書、「文法化する英語」は、私にとってはとりわけ強烈な一撃でした。

「通時言語学」というのでしょうか、内容としては、現代英語にある「冠詞」や「法助動詞」「受動態」「進行形」「完了形」「不定詞」「存在構文(there文)」「形式主語it構文」「関係代名詞」「接続詞」「再帰代名詞」「助動詞DO」「所有格」といった十三のテーマについて、「どうして今日のような形になったのか」を、古英語から中英語、近世英語にいたる歴史的変化から説明してくれる、というもの。いわゆる学校英文法の説明だけではいまいち腑に落ちなかった英語のいろいろなナゾが、歴史的な変化の経緯を知ると、とてもよくわかる!

それだけでも本書は、読んで「ためになる」本なのですが、私にとって強烈だったのは、著者が示す、以下のような言語観。

・(英語であれ日本語であれ、アイヌ語であれゲール語であれ、)それぞれの言語は、生物の適応進化のような、「生き残るための必然性」としての変化を繰り返して、今日までやってきた。

・各言語の歴史は、いわゆる自己組織化の歴史として捉えられる。カオスの海の中からしだいに秩序が形成されるように、各言語はそれぞれの「文法」をシステム化して生き延びてきたのである。

つまり、ハリネズミの針や、シマウマの縞模様のように、それぞれの言語がどうして今日のような秩序だった体系を得たのかは、生き残るための合理的な選択の歴史から説明できる、と見る考え方ですね。

この見方を追究するならば、それぞれの言語の持つ文法なるものは、だれか特定の天才が考えたものではなく、ちょうど雪の結晶のように、自然に生成されたシステムだ、ということになる。雪の結晶の類推で解く言語史。この見方が正しいのかどうかは私ごとき浅学の徒にはとうてい判定できませんが、ロマンあふれる言語観であることは間違いなく、人生が変わるほどの、鮮やかな衝撃を受けた、読書体験となったのでした。

安武知子さんの『コミュニケーションの英語学』を読んで「談話要因」という概念に出会った話

これは!と思えるような外国語研究書に、ひさびさに出会えました。安武知子さんの『コミュニケーションの英語学―話し手と聞き手の談話の世界 (開拓社言語・文化選書)』。開拓社から出ている「言語・文化選書」は好著揃いですが、本書も、実に、よいものでした。

単なる英語の勉強本にはならず、それぞれの著者ならではの「英語の研究方法にはこんなものがある!」の主張の場ともなっているシリーズなので、英語の歴史を紐解くところからアプローチする人もいれば、日本語との比較でアプローチする人もあり、中には「こんなアプローチ方法があったか!」と読者を感心させるところから始める人もあり。

で、この書の著者、安武知子さんは、どちらかといえば語用論的な研究をフィールドとしている人のよう。語用論、というのは、正直、これまでの私もあんまり馴染みがないし、あまり良書に出会った記憶もないのですが、この『コミュニケーションの英語学』は、とても、よかった。

本書のキモとなる「談話要因」という概念については、序文において、かなり明快に説明されています。要約しますと、

・ことばによるコミュニケーションには、客観的な情報だけではなく、話し手自身の主観的な心情や意図や態度も背景に込められている。

・しかもそれは、話し手が意識的に、ことばに自分の主観を含んでいる場合(英語で言えば、mayやmustのような助動詞を挟んだり、仮定法で表現したり)だけでなく、話し手も無意識のうちに自分の主観をニュアンスに込めてしまう場合もある。だから、単純に文法を見ているだけでは、本当の意味での外国語の意味の理解は完成しない。

・このような「談話要因」を研究するためには、それぞれの言語を話している人々の、文化や生活慣習、歴史的な経緯といった領域まで研究しなければならない。

・そうすることによって、我々は、単なる文法や語彙の比較よりもさらに踏み込んだ、それぞれの言語の深いレベルでの「世界の感じ方の違い」を分析できるのだ

↑私なりの要約なので、それこそ、著者の安武さんの込めていた「ニュアンス」を殺してしまっているかもしれませんが、、、。しかし、問題意識は、とてもよくわかる!同じ言葉でも、話す人や、シチュエーションによって、「実は怒っているのかな?」とか「実は皮肉を言っているのかな」とか「保育園に行きたくないと言っているけど本当は行きたいのだろうな(これは私の娘の場合、、、)」とかを読まなくてはいけないのは、日常のコミュニケーションで起こっていること。

その「言外の意味の込め方」にこそ、各国言語の特徴の違いが出てくるはずだし、

そこまで踏み込んだ研究こそ、真の外国語理解だ、という設定ならば、私には、とても、共感できます。

本書は、上記の考え方に従って、「自動詞と他動詞の問題」や「冠詞の使い分け問題」、「someとanyの使い分け問題」など、文法書の解説だけではどうにも釈然としない英語の微細な表現の問題に切り込んでいきます。専門書なのでかなりハイレベルな議論が行われる本ですが、ともかく通読すると、確かに、英語というものへの理解がグンと深まることは確か。ぜひぜひ、一読をおすすめしたい本です!

AIの進化がどうなるかわからないから不安?よし、外国語をやろう!

本当に、毎回毎回、しつこいようですが、弘法大師空海さんが、どうも、好きです。

それも仏教の偉人というよりも、外国語学習の一大先輩として崇敬しております。つまり、「偉いお坊さん」として畏怖する感覚はあんまりなくて、それよりは、どんなライフスタイルと自己管理をしていた人なのか、という好意と好奇心で、ついていっています。まあ、アスリートのおっかけみたいなもんです。

ただし、空海さんの真言密教に好奇心を持ちながら外国語修行をしていることには、現代社会を生きる上で、大きな効用もある。

外国語をやっているとどうしても聞こえてくる、「いずれは機械翻訳が発達するから、外国語の知識など無用になるだろう」とか「大半の言語は百年後には絶滅しているだろう」とかいう雑音、これが、真言密教の近くにいると、まるで気にならない!

「今日、必死で六時間も勉強したことが、明日には無駄になるかもしれない?そりゃそうでしょう。そんなことは百も承知でガリ勉をしておりますので」と鷹揚に返せるようになりました。若い頃はそれなりに、「オレが必死に勉強していることに、意味はあるのだろうか」とか迷ったこともありましたが、最近は、全然、ちっとも。

外国語を猛勉強するのは、それによって自分がどんどん新しいものに変わっていけるからで、「外国語を話せるんだぞ」と周囲に自慢したいからでも、勉強量をみせびらかしたいからでも、もちろんモテたいからでもない。それらは私の中にもたまに起こる欲望ですが、しょせん全部、煩悩だ。もっと言ってしまえば、ホルモンの影響による、ただの脳の勘違い。

真言密教ついでに話をすれば、私は昼間は東京都内のIT企業で働くサラリーマンですが、職業上、AIの最新技術については情報を仕入れたり、研修に参加したりしております。そういう場にいると、たしかに、AIの最近の進歩はめざましく、凄い。

けれどもこれが最近は、現代社会に生きる私たちの、不安の種にもなっているのではないでしょうか。もちろん、AIが人類に何をもたらすかといえば、きっと、いいことと悪いこと、両面をもたらすのでしょうから、いちがいに怖いとばかり言っていても仕方ないのですが。でも、「どうなるか読めないこと」は、やはり、誰にとっても、不安の種でしょう。

しかし、驚くべきことながら、真言密教の近くで勉強していると、未来に対するそういう不安もずいぶん薄らぎます。

というのも、よくよく考えれば、真言宗の究極は「即身成仏」ですから、

AIが人間を越えようが、

バイオテクノロジーが地球の環境を塗りかえようが、

不老不死がもたらされようが人類がサイボーグになろうが、火星やスペースコロニーに引っ越そうが、

「何があろうと、仏様を目指して精神の鍛錬をみんなで続けましょう」と考えてればいいのだから、何の影響もない!

いや、むしろ、AIやら人類サイボーグ化やらが進むことで、人類全体がより高次の(有徳で慈愛に満ちた)精神的な存在にレベルアップするならば、それはそれで、いい未来なのではないか、とも思えます。←この考え方は、「テクノロジーを使えば仏教修行のドーピングも可能」という理屈なので、仏教に詳しい方からには怒られてしまうかもしれませんが。。。でも、人類が、高次の精神にレベルアップするテクノロジーがあるなら、試すべきではないでしょうか。ただしそれは、経済格差や社会階層に関わらず、試したい人が誰でもアクセスできるテクノロジーでなければ駄目ですが。

それにまあ、本当にAIやらバイオテクノロジーやらの暴走で、地球が危機に瀕すれば、

日本人はみんなで、高野山を中核に、和歌山奈良あたりの山中に立てこもって、ゲリラ軍として生活しながら、やり過ごしましょう。ここについても、高野山とその背後の奈良山地は、南北朝の戦いの時にかなり長期持ちこたえた実績があります!

え?南朝は結局負けたって?いやいや、あれは名誉ある引き分けです!何をやるにも、人と争う時に勝ちを取りに行ってはいけません。いつだって、おいしいのは「名誉ある引き分け」決着なのですから。

空海先生は、やまとことばと漢文とサンスクリットをスライドしていた、と思う話

しつこいようですが、弘法大師空海が好きです。

それも、宗教家としてのお大師様だけでなく、外国語習得者の大先輩として、空海さん(外国語修行について語るときはあえてこう呼びたい)を尊敬しております。

いってみれば、サッカーが好きな人が中田英寿を、野球が好きな人がイチローを尊敬するようなもの。とてもとてもかなわないレベルだが、少しでも真似をしたくなる先人として。

※と、中田やイチローの名前を出してふと思ったことですが、真言密教における仏教修行って、「体をしっかり管理し、徹底的に鍛え、かつ座学の勉強も日々怠らない努力を重ねれば、個人差はあれ、誰でも精神のレベルを上げていくことができる」という発想の点で、スポーツ科学に似ている合理性があるような。間違っていたらすいません、、、。

とりわけ、自分が、外国語なり、言語一般なりを勉強していると、どうしても陥ってしまう、「結局はどれかの言語に偏ってしまう」傾向を、どうも空海さんは突破しているように見える。私が見ているのは、日本語における、「やまとことば」と「漢文体」のバランスをめぐる古くからの議論のことで、

概して、やまとことばは感情表現に向いており、漢文は客観的なドキュメントに向いている、という話を聞いたことがあります。私もその意見に賛成で、現代日本人も、「会話の中でやまとことばを多用する癖のある人」「会話の中で漢文体を多用する癖のある人」とに分けることができるように思っています。かつその双方は、たまにまるでコミュニケーションが通じないほど、こじれることがある。

かくいう私も、実は完全に漢文好きの方で、同じことを言える文章なら、ひらがなだらけよりも、漢字熟語をたくさん入れてカタく引き締めたいほうです。特に外国語をやっていると、やまとことばのような、論理よりも情感で組み立てられる言葉の世界については、直感的に「外国人にとって勉強しにくい=閉鎖的だ」と思って敬遠してしまうようになる。

空海さんも平安期のエリート僧で、中国留学を果たした方ですから、当然、漢文派、なはずなのですが。どうも、民衆にもわかりやすい表現を探すとき、あっけなく、やまとことばの世界に回帰しているように見えます。両方のスピリットを自在にスライド移動できるような。これは伝説かもしれませんが、「いろはうた」の原型は空海さんが作った、というハナシを信じるならば、民衆に浸透する流行歌の作詞までできたような話になり、ことばの使い手として見た場合、驚異的です。

ところが空海さんの場合はこれにとどまらず、今でも若い子たちが(おそらくはよくわからずに、でしょうけれども)Tシャツのデザインなんかに使うこともある、サンスクリット語の日本仕様変形版、「梵字」の普及に邁進したのも弘法大師なので、話はさらにハイレベルになる。

梵字、ときいてもなかなかピントこないかもしれませんが、たとえば写経を体験するとき、漢文で写経をするのと、梵字で写経をするのとでは、これはたしかに、後者のほうが写経の目的には適う。うまくいえませんが、意味の剥げ落ちた記号の形態そのものに集中しているうちに、確かに、意味の向こうの宇宙が垣間見えてくるような。

梵字、漢文、やまとことば。

どれも日本語を支える大切な歴史的遺産であり、今日の日本語を考える上でも三つ全部に目配せをしなければいけないのでしょうが、しかし、これは、なかなかできない。

この三つの層を自在にスライドした空海さんは、やはりイチローやボルトやマイケルジョーダン級に、「アスリート的な視点で見ても、百年に一度レベルの存在」だったのではないでしょうか。フィールドが仏教という、現代日本では流行らない分野のために目立ちにくいだけで。

naranjo(スペイン語の「オレンジ」)が英語と響きあいつつアルゼンチンタンゴの旋律に紛れ込んだとき

私がスペイン語をやるようになったきっかけは、スペイン語圏の音楽。

フラメンコもフォルクローレもよいが、特に私にとっては、アルゼンチンタンゴが素晴らしい!

中でもとりわけのお気に入り曲が、Naranjo en flor. 日本のタンゴ奏者の間でもポピュラーな演目で、日本語題は「花咲くオレンジの木」。

いろいろな奏者が吹き込んでおりますが、私の好みで言えば、ちょっとマニアックな選定ながら、フアン・カルロス・カセーレス(Juan Carlos Caseres)の演奏のものがとてもいい。ピアノの左手のリズム感は「まさにタンゴ!」な歯切れの良さでありつつ、おおらかにリスナーを包む、あったかい歌声が酔わせてくれます。

▼このアルバムの二曲目にNaranjo en florが入っています。これは名演▼

カルロス・カセーレスは、タンゴ ネグロ トリオという、アフリカンなルーツを強調したタンゴ(「白人の国」という自負の強いアルゼンチンで、その国民音楽であるタンゴのアフリカからの影響を探究するなど、それだけで挑戦的ですが)のグループで活動していたので、そちらのほうが有名かもしれません(タンゴ ネグロ トリオについての詳細はたとえばこちらのサイトを参照ください)。でも私はこの人のピアノ&ボーカルのシンプルなスタイルでの演奏が好きですな。とくに、老いてから確立された独特なダミ声、おじいちゃん萌えの私には、たまらん。

さて、この曲のタイトル。

Naranjo(ナランホ)というのは、スペイン語でいう「オレンジ」のことです。それはよいのですが、なんとこの語、最近読んだある本によると、英語のorange(オレンジ)と語源が同じだ、というのだから、かなりビックリ。どういうことか、というと。。。

・そもそもヨーロッパにはオレンジはなく、古代インドが原産である。

・インドのサンスクリット語では、オレンジはnarangahだった。実はこれが、インドヨーロッパ語族における「オレンジ」の最初の名前。

・それがアラビアからアフリカを経て、スペインに入った。アラビアからオレンジの栽培技術を輸入したスペイン人はオレンジを一大産業にした。ここでインドのnarangahが、naranjoになった。

・フランスに入った時に、なぜか、頭のnが抜けた(なぜかは、謎。ただし、フランスに入るといろんなものの語頭やら語尾やらが「抜ける」傾向があるように思えるのは私の気のせいか)。

・それが今後は英語に入った時、アレンジされて(!?)orangeとなった。これが、日本にもやがて入ってくる呼び名、「オレンジ」

と、いう次第なようですが。しかし、スペイン語のnaranjoと英語のorangeが、語頭のnを抜き取ればたしかに綴りがそっくりだ、などというのは、この話を読むまで私もまったく気が付きませんでした。

インドからスタートしたオレンジが、ヨーロッパに入ってくるのに伴い、言葉も少しずつ変化しながらヨーロッパに入ってきて、今ではカタカナ語「オレンジ」となって、日本にもやってきたのだ。

そんな「オレンジの雄大な一大歴史」を考えながら、あらためて、アルゼンチンタンゴの名曲、Naranjo en florを聴くと、また独特な感動があります。こういう感動を味わえるのは、外国語マニアの特権の一つかと。

もちろん、Naranjo en flor はぜひ、発音のきれいな、アルゼンチン人ミュージシャンの演奏で聴いてくださいね。上述の不安・カルロス・カセーレスの他には、ロベルト・ゴジェネチェのボーカルに、なんとかの巨匠アストル・ピアソラが伴奏をつけているバージョンなんてのもyou tubeで見られます!