杉本つとむ氏の著書『長崎通詞ものがたり』の読後感に胸が熱くなった話

「通詞」と書いて、「つうじ」と読みます。

江戸時代のことばで、今でいう「通訳者」「翻訳者」のこと。江戸時代といえば、鎖国のおかげで、日本と交易が許されていたのは、長崎に寄港する清国とオランダのみ。ゆえに、この時代の「通訳者」「翻訳者」の花形といえば、中国語とオランダ語となります。

直観的には、この時代の「通訳者」「翻訳者」などといったら、たいへんなエリートで、幕府に手厚く保護されながら、決められた通訳業・翻訳業を、のんびりやっていた人たちなのだろうな。。。と、勝手なイメージを持っていたのですが。

この本を読んで、認識を改めました。「江戸幕府の役人の通訳なんて、レベルも低いだろうし、たいしたことないだろう」というのは、完全に、ステレオタイプでした。

むろん、本書は歴史書ですから、残念ながら実際にも、たいした語学力もないのに、賄賂や密貿易に明け暮れる、やくざまがいの悪党通詞の記録も紹介されてはいるのですが、

全体的には、感動的な話が多い。この時代に長崎で通訳翻訳をやっていた人たちというのは、純粋に「外国の知識を輸入することが、よのため、ひとのため」と考えて、ものすごい勉強量をこなしていることが読み取れる。特に、オランダ語をやる、ということは、オランダ人が持ち込んでくる西欧文明の根底にまで迫ることだと理解していた人々は、プラトンやアリストテレスもどうやら読みこなし、数学化学天文学、ありとあらゆる「西欧の科学」を勉強していた。行ったこともないはずの西欧のことを、よく知っていた。それらすべて、「勉強をすれば、ひとのためになるから」という無私の精神からきているガリ勉ぶりであることが、いかにも江戸時代らしい気概で、なんとも、すがすがしい。

そりゃそうかもしれませんね。この時代、たとえば、オランダ語の医学書を一冊翻訳することに成功すれば、それだけで日本の医学技術がぐんとレベルアップし、昨年までは助けられなかったような難病も治せるようになる。翻訳をがんばればがんばるほど、日本の産業や衛生医学のレベルが上がっていく。そういう意味で、通訳や翻訳に対する社会の期待は、現代と比べ物にならないほど高く、かつ、やっている人も、歴史に参加しているという熱さをもってやっていた。

もちろん、日本という国がまだ若かったから、可能だった話。今の時代、外国の何かの本を一冊翻訳に成功しただけで、国家レベルでの偉業として絶賛される、なんてことは、ない。そういう意味では本書は、日本における「外国語習得の歴史」の、もっとも幸福な時代を描いている本、といえるのかもしれませんが、

いっぽうで、本書を読むと、これだけネットやテレビやらのおかげで外国語が身近になっている僕らが、「どうも日本人は英語が苦手で・・・」などと言っている場合ではないな、がんばらなければな、と襟を正してしまいます。僕らはお侍の時代に生きてはいませんが、どうせ外国語をやるなら、この時代の「通訳侍」たちの熱い志を何らかの意味で受け継ぐ気概で、やりたいな、と、僕のやる気もガン上がりした読書経験となったのでした。

山岡洋一氏の著書『英単語のあぶない常識』の読後感にちょっと戸惑った話

昨日の投稿で、翻訳家、山岡洋一氏の著作を絶賛したばかりですが、同じ著者の別の本、『英単語のあぶない常識』を読んでいて、ちょっとした戸惑いの心境に陥ったので、そのことを今日は、書きます。

先に『英単語のあぶない常識』という本の結論だけを述べてしまうと、

・英和辞書というものは、英単語に適切な「訳語」をあてているものにすぎない

・「訳語」というのは、その英単語と類似している日本語の単語である。類似であって、一致ではない

・言語というものの性格上、ある英単語と、ある日本語単語とがピッタリ一致することは、ありえない。だから、辞書に載っている「訳語」は、英文解釈のための手がかりであって、正解ではない

・英単語の本当の意味を調べるには、「生きた英語」が実際に使われている場から、その英単語が使われているサンプルを大量にとってきて研究するしかない

・つまり、英和辞書は使うべきだが、英和辞書に書いてあることをあてはめるだけでは訳はできない。「辞書を信じるのは馬鹿者、かといって辞書を引かぬは大馬鹿者」というスタンスで、辞書とは付き合うべきである。

というところでしょうか。そしてこの本では、上記の理念に則って、「辞書を引くと include の訳は『含む』だが、それでは説明のつかない用法がある」とか、「辞書を引くとexpectの訳は『期待する』だが、それでは説明のつかない用法がある」とかいった話題が豊富に展開され、とても勉強になるのですが、、、

私が戸惑ったのは、この本に対する世評のほう。好意的なものの中に、かなり批判的なレビューもあるのです。つまり、「辞書には限界があるとは、何様のつもりだ」とか、「英語がある程度できる人間なら常識的に知っているincludeやexpectの用法について、何を偉そうにいまさら言っているのか」とか、かなり辛辣なものが複数ありまして。

でも、僕が読んだかぎりでは、この本の著者である山岡洋一氏は「辞書の限界」についての意見を言っているだけですし、「includeやexpectの用法」についても、少なくとも僕はためになる話と受け止めました。自分がそれなりに納得して読んでいた本が辛辣なレビューを食らっていると、なんだか自分が攻撃されているように感じてしまって、なんだか萎えます。

主観かもしれませんが、どうも、英語に関する本については、世のレビュアーに、かなり辛辣な口調になる人が多いような気がするのですが。そりゃ、書いてある知識が間違っている本はレビューで攻撃されるのは当然ですが、「この程度のわかりきった知識をいまさら並べているのは生意気だ」とか、「既存の辞書に喧嘩を売るとはなにごとだ」とか、「翻訳者がこんなテーマで本を出すとは何様だ」とかいった、なんだか怖いレビューをよく見かけて、萎えてしまいます。

というわけで、私の本日のレビューも、なんだか恐る恐る、になってしまいましたが、山岡洋一氏の『英単語のあぶない常識』、「私は」面白い本だとおもったのですが、プロの人たちから見るとどうなのでしょう、、、?

と、いう、不安と戸惑いの気持ちを、そのまま表明しておくことと、いたします。。。

山岡洋一氏の著書『翻訳とは何か—職業としての翻訳』の読後感がとてもよかった話

いい本を、読みました。

山岡洋一氏の『翻訳とは何か―職業としての翻訳』です。

副題の「職業としての翻訳」は、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーの『職業としての学問』を意識しているものと思われます。ヴェーバーの本も、読者に「世の中は甘くないんだぞ」とガツンと言ってくれる有意義な本であり、若いうちに読んでおくべき名著と思っておりますが、こちらの山岡洋一氏の本書も、いい意味で読者の甘えを断ち切ってくる迫力に満ちた、現代ではなおさら希少な名著といえるのではないでしょうか。

・翻訳というのは甘いものではない。

・単に語学ができるだけではダメで、日本語力がないといけない

・それでいて、収入は期待できない。これで生涯食っていけている人など少数の、向かいの少ない世界

・だがそもそも、翻訳というのは、「外国語で書かれたものをより多くの人にも読んでもらいたい」という教育的な精神で成り立つものであり、お金ではない文化的な意義を理解できる人間が試みるべき職業である。

うわあ、厳しい、、、w。おおよそこのような議論が累々と展開されている本と思っていただければよいかと。ひとことで言えば、昨今の「翻訳スクール」などに毎年何万人も集まってくる、「翻訳なら私にもできるかと思って、応募してみました、ヨロシクオネガイシマス!」な軽いノリの人々に対して、「翻訳を嘗めてんじゃねえよ」とパンチを食らわせてくれる本、というところでしょうか。

「翻訳というのは、もともとは、もっと崇高な目的意識があって、出てきた職業のはずでは?」「そもそも、世界には、『英語の本が読みたければ英語を勉強しなさい』と冷たく突き放すだけの国もたくさんあるのに、日本などうしてこんなにも親切に、あらゆるものを日本語に訳して出版してくれるのか、ないし、それが当たり前の文化になったのか?」そう問いを投げかける著者は、議論を明治維新にまで遡らせます。結論としては、ここで、「外国人の指揮官を雇うことで様式化を行なった幕府軍」が、「外国の文献を翻訳して自己流に解釈し、和洋合体の軍隊を作った薩長軍」に敗れたことが、決定的に重要だったということ。「いかに西欧のテクノロジーが優れていても、それをそのまま移植してもダメで、日本流にアレンジする必要がある」、この精神が翻訳文化であり、それは、外国語の価値を認め勉強しつつも、日本語の価値はそれはそれで大事にする、という、歴史的な選択であった。この明治維新の時の経験がなければ、日本はどこかのタイミングで英語ないしフランス語を公用語にし、日本語を衰退させてしまうという道を選んでいてしまっていたかもしれない!

・・・という歴史観は、もちろん、本書の著者の個人的な見解であり、正しいか正しくないかを問いだせば、きりがない話。ですが、「日本人はどうして英語が苦手なままなのか」というありがちなら問いに、「それは明治維新の時の選択として、『あくまで日本語を公用語として守り、ただし、翻訳を盛んにすることで外国の文化を吸収することは積極的に奨励しよう、という方針をとった結果、そこに文句を垂れて仕組みを変えたいというのであれば明治維新にまで遡る議論になるぞ」という明晰な答えを用意している本であり、とても興味深いものでした。

なによりも、私個人としては、愛読していた司馬遼太郎の『花神』が本書で取り上げられ、「実は翻訳者というものをヒーローとして扱った画期的な歴史小説である」と絶賛されているのが、嬉しかった。司馬遼太郎の歴史小説『花神』を翻訳を巡る物語として読む方法、、、なるほど!

初代ドクターフーの冒険#1: AN UNEARTHLY CHILD

半世紀の歴史を持つ、イギリスの長寿ドラマ『ドクターフー』の、記念すべき第1作!ドクターのキャラ設定が固まっていない難はあるが、早くもTARDISが登場するのがファンには嬉しい!

エピソードデータ

放送日: 23 November 1963
監督:Waris Hussein
脚本:Anthony Coburn & C.E.Webber

概要

この地味な20分程度のSFドラマが、まさか半世紀以上も続く一大長寿番組の幕開けになろうとは、これが放送された1963年の時点では、いったい誰が予想できていたことでしょうか?

・・・などと恰好をつけて言ってはみたものの。裏を返して言えば、現代っ子の目には本作はあまりに地味なドラマに見えてしまうであろうことも確か。特に21世紀版のドクターフーの波乱万丈な展開に慣れている人からすると、「え? こんなノンキな展開なの?」と、違和感すら覚えるかもしれません。一言でいうと、現代っ子には、ペースが「ヌルい」んです。。。

ですが、1960年代ブリティッシュポップカルチャーという(いまや)古典としてリスペクトを集めている一時代の放つ残り香を、ゆったりと時間を取って味わいたいという方 (忘れちゃいけない、この時代の「ブリティッシュポップカルチャー」は、ビートルズやローリングストーンズやジミ・ヘンドリクスを生み出した母胎なのだぞ!) や、

ドクターフーの「原点」はどのような雰囲気の作品だったのかをきちんと知っておきたい、という、熱心なドクターフー研究家の方や、

あるいは、1960年代のイギリス英語をしっかりとヒアリングして研究してみたいという、英語オタクな方には、

本作はたまらない魅力を持って輝いて見えることでしょう。

ヒロインのスーザンはとことん愛らしく、ドクターのキャラはコミカルで、コンパニオンであるバーバラやイアンはどこまでも気のいい「善良な一般市民」。シナリオには、余計な屈折も、穢れもない、1960年代ならではのスナオさが満ち溢れた作品になっている。これは是非とも、21世紀版のドクターフーに慣れ切った人にこそ、一度は見てほしい。こんなチャーミングな雰囲気から、ドクターフーのレジェンドは始まったのだぞ、と。

あらすじ

本作品のおおまかなあらすじは、以下の通りです(ネタバレ全開です、あしからず)。

ロンドンのとある学校の中、二人の高校教師(イアンとバーバラ)が会話をしている。彼らの生徒であるスーザン・フォアマンについてだ。この15歳の女子生徒、とても優秀なのだが、一般常識が欠けている。それも、お金の使い方を知らなかったりといったような、基本的なレベルの常識の欠落である。田舎育ちとか外国育ちとかで説明できるようなレベルでもない。お金の使い方もよく知らないままティーンエイジャーになったとは、いったい彼女の生い立ちはどうなっていたのか?それでいてスーザンは、理科の時間となると、五次元の話をしたり、時間移動の話をしたり、妙に自信たっぷりに、独自の理論を語ってくる。まるで本人が五次元の世界やタイムトラベルを経験済みであるかのような。。。彼女の家庭環境を調べると、どうやら祖父との二人暮らしらしい。では、彼女が同居しているという「祖父」に会えば、彼女の生い立ちの謎も解けるのでは? そう睨んだ二人の教師は、スーザンの家庭を訪問し、彼女の「祖父」に会ってみようとする。ところが、学校の事務室から取り寄せた、スーザンの現住所は、スクラップ置き場の住所だった! 二人の高校教師が下校中のスーザンを尾行してみると、確かに彼女は、学校に届けている通りの住所、スクラップ置き場に入っていった。そして、そこに置いてあった警察用の電話ボックス(TARDISだ!)の中に入ってしまった。二人の高校教師がその電話ボックスを調べていると、スーザンの祖父が外出から帰ってくる。「何をしているんだ? いまどきの高校教師は生徒を尾行までするのか」とオカンムリなおじいちゃん(まぁ、これは確かに(笑))。ちょっとケンカめいた議論になってしまった高校教師が、強引に電話ボックスの中に入ると、あれあれ不思議、電話ボックスの中はかなり広い、計器や操作盤に囲まれた宇宙船内のような部屋。スーザンの祖父(=初代ドクター)は、「我々の秘密を知ってしまったからには、1960年代のロンドンに帰してやるわけにはいかんな」と言いながら、操作盤を操り始める。この電話ボックスは、実はタイムマシン。ドクターとスーザンは異星人で、この電話ボックス型のタイムマシン(TARDIS!)を使って地球のいろいろな時代を調査旅行しているところだったのだ。二人の高校教師、バーバラとイアンを乗せたまま、TARDISはタイムスリップを始めてしまい、まだ文明前発生前と思われる、原始時代のイギリスに到着した。すると、毛皮を着ている直立歩行の人影が、突然現れた電話ボックスのほうをじっと見ており、、、ここで「来週につづく!」

21世紀版のドクターフーに慣れている現代の視聴者がこのエピソードを見たときの最大の違和感は、おそらく、初代ドクターフーが、いろんな意味で強引で偏屈で、見方によっては非道なことではないでしょうか?黙って尾行をした高校教師も悪いが、「君らを家に帰すわけにはいかん」という理由だけで彼らを旧石器時代へのタイムスリップに強引に連れ去るドクターのほうが、もっと悪いと思います。いや、これって、もはや「拉致」、犯罪だよねw。

でも、かの「男はつらいよ」シリーズでも、第一作では寅さんのキャラがいまいち完成しておらず、見方によってはただの喧嘩っ早い乱暴者に見えるような粗いキャラ設定だったわけですから、初代ドクターの無茶な感じも、まさにシリーズ初版の、スタッフたちの生みの苦しみの結果と考えるべきでしょう。

内容のさらなる細かい分析は、以下にて、少しずつ、アップしていきます。

  • シーン別徹底分析:学校内
  • シーン別徹底分析:クラスルーム
  • シーン別徹底分析:自動車内および回想
  • シーン別徹底分析:廃品置き場にて
  • シーン別徹底分析:TARDIS内

トワイライトゾーンで英語を学ぼう!第16回 : TIME ENOUGH AT LAST

トワイライトゾーンを代表する超有名作!ではありますが個人的には言いたいことが・・・

エピソードデータ

タイトル:TIME ENOUGH AT LAST
日本語版(ミステリーゾーン)邦題:廃墟
エピソード番号:#8 (第1シーズン)
放送日:November 20, 1959 
脚本:Rod Serling
私のお気に入り度:ベスト16

あらすじ

主人公は、しがない銀行員。趣味は読書ですが、言ってみれば「本の虫」。頭の中は小説や空想物語のことばかり。上司には目をつけられ、奥さんにはバカにされ。そんな毎日に本人もウンザリ。

なんとか、たっぷりと、一人きりの時間を持ちたい。思い切り、気のすむまで、図書館の蔵書を片端から読んで過ごしてみたい。

そんな、しょうもない彼の夢が、ある日、意外な形で実現します。大国どうしの核戦争が突発的に始まったのです。そして・・・

評価

あまりにも有名な作品!そのせいで、今日の視聴者にとっては、本作を先入見なしで見るのは至難の技でしょう。というのも、メディアのありとあらゆるところに、本作のネタバレの危険が潜んでいるからです。トワイライトゾーンのファンたちがネット上ですぐにこの作品のことを話題にするし。いろんなアニメや映画や小説でパロディや引用がなされているし。それどころか、本シリーズ「トワイライトゾーン」の1980年代の劇場版では、なんと登場人物の「昔、こんな番組があったな」というセリフの中で、本エピソードのネタバレが堂々とされてしまっている始末!

という次第なので、基本的にネタバレをしない方針の本ブログでも、このエピソードについてはネタバレ前提でいきます。嫌な人は、以下の「ネタバレここから」から「ネタバレこのまで」の間をスキップして読んでください。

ネタバレここから↓↓ ↓↓↓ 

核戦争で滅んだ世界に、主人公はたった一人、生き残ります。最初は絶望にかられるものの、ふと考え直せば、念願の「好きな本をいくらでも読めるたっぷりの時間が、ついに手に入った(TIME ENOUGH AT LAST!)のだ」と気を取り直す。そして数十年生きられるだけの缶詰をスーパーから失敬し、図書館から本をたっぷりと運び出して、読もうとしたその瞬間に、うっかり、眼鏡を落として壊してしまいます。本作の中で何度も伏線が張られていたとおり、主人公は極度の近眼のため、それで本を読めなくなってしまいます。「せっかくたっぷりの時間のが手に入ったのに・・・」と嘆く主人公。

はい、そうですね。現代っ子の多くが、このオチに、僕と同じ感想を抱くでしょう。「あきらめずに、眼鏡探せばいいじゃん!」とか、「図書館に行けば視覚障碍者用のルーペがあるのでは?」とか。

いや、僕もそう思いました。ですが、そういうことじゃないんですよね、トワイライトゾーンというものは。古典落語のようなもので、「こうオチをつけたか!」と脚本家の小粋なところにヤンヤと拍手を送ればよろしい。その視点で言えば、本作はいかにもロッド・サーリングらしいオチのつけ方になっており、これこそトワイライトゾーンの代表作だと言う人が多いのも当然でしょう!

↑↑↑↑↑ ネタバレここまで↑

・・・と、まあ中身は、そういうわけなのですが、そんなことをいっている僕も、このブログでのオススメ度を16位にまで下げてしまっている通り、実は本エピソードのことは、あまり好きになれない(!)。いかにブラックなテイストを持ち味とするトワイライトゾーンであっても、主人公には原則、運命には立ち向かってほしい、と思うところもあり。全体的に女々しく見えてしまう本作のウジウジ感は、あまり好みに合わないのでした。

ただ、ロッド・サーリングの持ち味が全部出ているという意味で、トワイライトゾーンを代表する作品であることは間違いないし、古典的価値があるのは間違いない。ただ、この作品だけを見て、「トワイライトゾーンってこんなものか」と思っている人がいたとしたら、それは勿体ないですぞ!

作中の気になる英語表現

私が本作のことをどうにも好きになれない理由には、他にもあります。本好きの主人公が、何かとみんなバカにされるシチュエーション自体にも、私としては、言いたいことがある。確かに本作の主人公はひどいダメ野郎ですが、読んでいる本のセンスはとってもいいじゃないですか!

私自身もボルヘスやらウンベルト・エーコやらに夢中になりながら育った変な子供だったので、本に囲まれて過ごすという世界に憧れを抱く主人公の気持ちだけは、とてもよくわかるぞ。その気持ちは弁護したい。

というわけで、今回は、「本好き」「本の虫」を巡る表現を拾ってみました。本作のナレーションで使われているのは、bookishという形容詞。シンプルですが、これがまさに、「本が好きな」人を示す英単語となっています。ただし、おとなしい表現で、これ自体は、あまり、面白くない。

面白いのは、このbookishの類義語を辞書で追って行ってから。

なんと、日本語と同じ、bookworm(本の虫)という言い方が、英語の辞書にも載っているじゃないですか!用法も日本語の感覚と同じで、頭でっかちで、近眼で、腕力も弱いヒョロヒョロ野郎なイメージです。

もう少しましな言い方はないかと探せば、bibliophileという言葉があります。ビブリオフィル、と呼びます。日本でも、映画ファンのことを気取って「シネフィル」なんていうことがありますが、同じラテン語語源の言い方。日本語で言えば、「本マニア」くらいの、ちょっと堅い言い方か。堅い分、ただのオタクではなくて、それなりの哲学があって書籍をコレクションしている人とか、豪華な希少本を大事にコレクションしている人とかいった、「プロ」の本好きのイメージがまといます。どうせ本好きならばこう呼ばれるくらいの達人になりたい。

凄く面白いなと思ったのが、Bibliobibuli。ビブリオビブリ、と読みます。これは凄い。語感からしてバカにしている感じも凄く出ているが、ラテン語発生をにおわせている分、なんだかおしゃれな感じもしなくもない、ちょっと面白い表現です。語感も気に入ったので僕も一発で覚えてしまった次第です。ところが調べてみると、なんと九州の小倉市には、まさに「ビブリオビブリ」という名前の飲食店が存在するそうです! どんなお店なのか、とても、気になる!

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耳なし芳一の話を英語でネイティブにしたら一瞬で物語が終わってしまった話

こんなことがありました。

私「日本には耳なし芳一、という、有名なゴーストストーリーがあるぞ」

ネイティブ英語話者「どんな話なんだい? ぜひ、英語で話してオレを怖がらせてくれよ」

よかろう、とばかりに、怖がらせるための抑揚をつけて、語り始めた私。やってみれば、それなりに相手も引き込まれ始めた模様。
芳一が夜に一人で琵琶の練習をしているところ。
サムライの幽霊がやって来たところ。
「ご主人がお前の琵琶を聞きたいと言っておる。ついて参れ」という、サムライの言葉。

そしてサムライの幽霊が、彼の主人の屋敷まで、芳一の手を強引に引いて連れていくところを、おそろしげに、

The Samurai ghost dragged his hand…

と、語ったところ、

ネイティブ英語話者「なんてこった! そりゃ怖いな!」

私「え?」

ネイティブ英語話者「だって、そのサムライの幽霊は、芳一の手を引きちぎって、引きずって持っていっちゃったんだろ?」

なんのことかわからずに困惑する私。ですがすぐ気づく。ああ、そうか! 私の英語がおかしいんだ。

The Samurai ghost dragged him by his hand.

としないと、手だけを引きずっていっちゃったことになっちゃいますよね。

絶対、相手も、僕の英語の間違いだとわかってて言ってきたよね。いじわる。

というわけで、ノリノリで語り始めた英語版の芳一が、一瞬で終わっちゃった上に、

耳なし芳一じゃなく、腕なし芳一になっちゃった。。。

トワイライトゾーンで英語を学ぼう!第15回 : MIRROR IMAGE

エピソードデータ

タイトル:MIRROR IMAGE
日本語版(ミステリーゾーン)邦題:めぐりあい
エピソード番号:#21 (第1シーズン)
放送日:February 26, 1960
脚本:Rod Serling
私のお気に入り度:ベスト15

あらすじ

深夜の田舎町、長距離バスの待合所で、一人の若い女性がバスを待っています。

吹きすさぶ嵐のせいで、バスはずいぶん遅れている模様。女性は事務員に「あとどれくらいかかりそうか」と訊いてみます。すると事務員からは、「十分前にもあんたは同じ質問をしたじゃないか! 十分程度で状況は変わらないよ」と不機嫌な対応。おかしい、女性がその事務員に話しかけたのは、初めてなのですが。。。

トイレに行ってみると、今度は清掃員が、「つい先ほども来られましたよね? ご加減でも悪いのですか?」と声をかけてきました。しかし女性は、トイレに入ったのは今夜は初めてです。

いったい、みんなは何を言っているのだろう。

ふとトイレの鏡を見ると、そこにはすました顔でこちらを見ている、もう一人の自分が、、、。

評価

これはもう、名作です

深夜の長距離バスの待合所という、シチュエーション一発の潔さ(八重洲や新宿にもこういう場所がありますが、確かに、夜中、女性が一人で待たされていると心細い世界ですよね)。この限定された空間の中、わずか数名のエキストラと、主演女優と男優(後半から登場する、親切に助けてくれようとする(でもあまり役に立たないw)お兄さん)の二人だけで、ドラマが進行していきます。

つまり、「ドッペルゲンガーもの」です。そう説明してしまうとヒトコトで終わりなのですが、さすがは、トワイライトゾーン。ゾクゾクさせてくる静かな演出が、とても効いている一作です。モノクロ映像はこういう地味なエピソードでこそ、冴えてきますね。

原因も結果も背景も曖昧。けっきょく、ナニモノの仕業だったのか。分身たちにはそもそも意図があったのか。それはわからない。その曖昧さが、たまらなく怖い!

とりわけ、本作のラストシーンは、ビジュアル的な不気味さにおいて本シリーズ屈指の出来栄えと言えるのではないでしょうか!

作中の気になる英語表現

このMIRROR IMAGEというエピソードを私が愛する理由は、とにかく「主演女優がとても良い!」、ここにつきます。

彼女は、ヴェラ・マイルズ。ヒッチコックの映画でよく見かける女優さんです。有名どころでは、『サイコ』の主演女優をやっていましたね。あ、『サイコ』の主演といっても、シャワールームで殺されるヒロインじゃ「ないほう」のヒロインです。シャワールームで殺されるほうがジャネット・リーで、そのあと事件の謎解きをがんばるほうが、ヴェラ・マイルズですね。

本作のヴェラ・マイルスは、深夜のバスステーションで怪現象にびくびくとおびえる女性を演じております。一人芝居のシーンが多いのでかなり苦労もあったかと。それにしても、このトワイライトゾーンというテレビシリーズ、デパートの中で怪現象に怯えるアン・フランシスといい、ヒッチハイカーに追われて怯えるインガ・スティーブンスといい、60年代美人女優たちの「ビビリ一人演技」を存分に鑑賞できる楽しみに満ちておりますね。あ、この言い方は何だか変か。。。

このヴェラ・マイルズという女優さん、何が良いかと言えば、英語の発音がとてもキレイで、聞きやすい! 我々のようなノンネイティブが日本語字幕なしのテレビドラマのソフトを鑑賞する際、こういう女優さんが主演を張っているエピソードにあたると、本当に助かりますね。英語を練習するなら、私もできるだけ、このような「発音のクリアな人」の真似をするようにしたいな、と思うところもあります。そんなわけで、透明な英語発音を堪能したいという意味でも、本作MIRROR IMAGEは、何度も何度も見て楽しめてしまう作品なのでした。

面白い英語表現としては、このヒロインが、他の男性客に「どうかしましたか?」と親切に声をかけられたときの返しのセリフ。

I’ve  been seeing things…!

「(何が起こっているのか私にもわからないのですが、とにかく、)さきほどから、変なものが見えるのです」というニュアンスが、完了進行形というちょっとヒネった時制で見事に凝縮されています。日本の学校英文法に出てくる、未来完了形やら受動進行形やらについては、「そんな時制、めったにお目にかかれません」と文句も言いたくなるのですが、完了進行形(have been ~ ing )はわりかし目にする構文です。かつ、ノンネイティブがパッと閃かないような表現でもあるので、ヴェラ・マイルズさんの素敵なプロナンシエーションと一緒に、このまま熟語として覚えちゃいましょう。

ちなみに、この、”I’ve been seeing things!”(何か変なものが見えちゃっているんです)という表現、ネットで調べたところ、「さっきから、窓の外をちらちらと不気味な顔みたいなものが横切っているのです」とか、「目の端を子犬くらいの大きさのものが素早く駆け抜けていくのが、何度も見えるのです」とかいった、精神的に追い詰められている方が、切迫した感じで助けを求める時に使っているようです。そういうときの返しとしては、”you have to keep calm!”とか”First of all there is nothing! Be strong!”とかいった励ましの言葉。日本での「ネットへの書き込み」のイメージだと、すぐ罵詈雑言の類になりそうなところが、英語圏の掲示板でこういう書き込みがあると、比較的皆さん一生懸命に応対するようで、まず励ましから入り、「専門家の助けを呼びなさい」のアドバイスにつなげていくのが、なんだか暖かくて、驚きでした。もちろん、私が覗いている掲示板サイトの傾向がそういうユーザーばかりなだけかもしれませんが。

でも、ホラー映画や、まさにこのトワイライトゾーンのような怪談系ドラマの世界で、美しい女性に”I’ve been seeing things!”と相談されて、「落ち着いて! 大丈夫だよ! 僕が救急車を呼んであげよう!」というセリフを返したら、それは即、フラグだよなぁ。。。

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