祝祭や祭儀に一緒に飛び込むような外国語学習でなければ意味がない

梅田修氏の『英語語源事典』を読んでいたら、実に興味深い記述がありました。「印欧語族について一般に言えることは、祝祭や宗教に関係する言葉が特に豊かであるということである。彼らは自然現象や死者の霊、あるいは、得体の知れない魔力などに強い感謝や畏怖の念をもち、それらを神格化して呪術や犠牲でもって神々の加護を得ようとした」

残念ながら、僕の語学の知識では、この主張がどこまで正しいかについて気の利いたコメントはできない(「その通りだが、セム系語族にも宗教や祝祭のボキャブラリーは多いぞ」「ウラル語族もまあまあ多いぞ」とか言った感想が述べられれば、格好良かったのに、そこまでの勉強量は、まだ、ない。悔しいながら)。

けれども、少なくとも、英語を勉強しているときの一番面白いところは、神とか悪魔とか天使とか、あるいは、占星術とか呪術とか魔法とかを巡る語彙を追いかけている時だ、というのは、僕も日々実感しているところです。そして、それが、一見無味乾燥な現代英語についての勉強にも、とんでもない光明を与えてくれることがあるのです。

たとえば、「災害」を意味する、disasterという単語。 実はこの中には、starの語源となった、「ステラ」の音が隠されている。「幸運の星から離れてしまう」というのが本来の意味で、それが「不吉なことが起こる」→「災害」となった、つまりもともとは占星術から出てきた単語なのです。他にも、「考える」を意味するconsider の中にもstar と同語源の音が隠されていて、こちらは本来は「星を見ながら思いをはせる」こと。このように探ると、現代英語のボキャブラリーの中に、古代や中世の人々の持っていた豊饒な感受性の世界が透けて見えてきて、がぜん、外国語の勉強も楽しくなるのです。

だから、どうしても僕は、英語の語源や英語史の話を読むときは、宗教や祝祭、呪術や迷信にかかわる語源エピソードを探してしまう。そういう話に触れている時にこそ、「英語を使った昔日の人々」と時空を超えて共感が起こるような気持ちを味わえる。

そんな外国語学習は、効率が悪い?

そうかもしれません。ただし、今日のように、辞書を引こうと思えば手元のスマートフォンからすぐに引けてしまう時代に、無味乾燥な丸暗記系の外国語学習は、あまり意味がないのではないか、などとも、思っております。

自動翻訳や、辞書検索がどんどん便利になる時代においては、むしろ、僕のような「自分と違う感受性を体感する」ための外国語学習が重要なのではないか。などとも思って、ますます、ブレることなく、語源や歴史にいちいち遡る「見た目は非効率な」外国語学習を今日も続けております。

人類学を比喩にとると、アマゾンの奥地の珍しい民族に会いに行った学者が二人いたとします。そして、「彼らの祭りに参加して、祭りに一緒に参加して、彼らと一緒の気持ちを共感したい」という学者と、「彼らの祭りの外にいて、観察ノートをとり、あくまで冷静にサンプルの記録をとる」学者と、二人の研究方法が分かれたとします。おそらく、プロの学者ならば、後者のスタイルのほうが望ましい、とされるのではないでしょうか。他文化を研究するとき、主観的な感動を求めるのか、客観的なデータ分析に徹するのか、これは永遠の議論かもしれませんが、

ありがたいことに僕の場合は、プロの学者でもなんでもない、アマチュアの語学好きにすぎないので、難しいことは抜きにして自分の好きな方の研究方法を取れる(勉強したことを人に教える時に間違ってはいけない、というくらいの責任感は、アマチュアとはいえ持たねばならないとは思いますが)。ならば僕の場合は、とことん、前者の立場、祝祭や祭儀を見たら「僕にもやらせて!」と飛び込んでいく異文化理解者でありたいし、

繰り返しになりますが、データならスマートフォンで一瞬で取れるような今日においては、ますます、そのような勉強方法のほうが重要になっているのではないかな、と思うのでした。

というわけで、英語の問題集を解くよりは、英語の語源や歴史の本をじっくり読む時間を作りたいし、

異文化体験のイベントにはガシガシ飛び込まねば、そして何より、もっともっと、旅をせねば。

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