この年齢で多言語話者を目指すことには時折生命の危険すら(でも、ますます、がんばります)

このお話は、「外国語勉強大好き」人間の中でも、「覚えがある」「覚えはない」で、意見がわかれる話と思います。

勉強対象を三ヶ国語目、四ヶ国語目と増やし出した頃から、時折、母国語であるはずの言葉(私の場合は、つまり、日本語)が、急に、よそよそしくなることが、ありませんか?

私の場合、それはたいてい、夜、来ます。
そんな夜を、私は何度か、経験しています。
ただ、昨夜来たのは超弩級で、眠れなくなった上に、最後には凄まじい頭痛にまで発展し、「このまま死ぬのでは?!」と青ざめたほど、ヤバかった。

それは、こういう感じです。多言語学習が比較的うまく進んでいるとき、いくつかの外国語を並行で頭の中で転がしていると、突然、「母国語への戻り方を、忘れている」。日本語で考えようと思っても、勉強中の外国語のほうが出て来てしまい、戻れない。
日本語で考えようとしても、できない。
あれこれ格闘しているうちに、ポンと、また日本語の文章が頭の中に出てくるようになり、やれやれ、ようやく、戻れた、と思ったら、

「あれ、この言語って、本当に僕の母国語だったかしら?」と戸惑うほど、なぜか、ぎこちない。
母国語の日本語もまた、勉強中の外国語のうちのひとつのように、よそよそしく感じられる。
自分の言葉でないような気になる。

さあ、そうなると、たいへんです。
なにせ、勉強中の外国語はどれも所詮は僕にとっては「オベンキョー対象」なので、もともとよそよそしいものでしかない。そのうえに、日本語も「なんだか、よそよそしい」と感じられると、母国語がないような、猛烈に孤独な心境になります。
それで、二時になっても三時になっても、まるで、寝付けない。

その状態をうまく説明するのは難しいですが、たとえば、部屋の時計をじっと見ていても、「これは英語ではclock、スペイン語ではreloj、そして日本語では、時計、と呼ぶものだけど、考えてみれば、どれもこのモノの本当の名前ではない」という気がしてくる、とでも言いますか。、 では、いったい、目の前にあるこのカチカチカッチン言っているものはなんなのだろう、僕はこいつについて何を知っているのだろう、という気になってくる。時計に限らず、世界の全てのモノやコトが、そのような「名前もないもの」に見えてくる。『鏡の国のアリス』の最初の章の挿絵みたいに、部屋の家具という家具にニヤニヤと不気味に笑っている顔が浮かび上がって見えてくる、そんな気がする。ますます、寝つけない。不眠は頭痛になって、本当にヤバいという気持ちになり、冷や汗をかく。

でもまてよ、
これって、単に年齢のせいじゃないか?

朝になると、冷静に、そう考え始めて、落ち着き、ようやく眠れる(二時間程度ながら)。
多言語話者に憧れたものの、しっかりと勉強する時間もお金もなかったので、二十代から三十代前半は死ぬほど働き、中年が見えてきた頃からようやく、夢の「多言語同時学習やってみよう!」と相成ったが、

存外、年齢的には、危険なことをしているのかもしれません。

ただし、この危険、山登りや素潜りのような「危険だけど、なんか、生還してきたときの爽快感がクセになる」ところもあり、つまり、こういう夜がたまにくるからといって、外国語の勉強のペースを緩める気にはまったくならない。

むしろ、燃える。
アブない人かな、こんな生き方、、!

でも、結論としては、

こういう、冒険的なところがつきまとうから、やはり、外国語学習は奥深く、やめられない。

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